尊敬する小説家は、いない

小説が割と好きな方だったんですが、尊敬する小説家は? と聞かれると困る。基本的にはいない。

自分の読書歴は、小学校とかを飛ばすと、新本格ブームがあって、村上春樹にはまって、大江健三郎にはまって、神林長平にはまる、みたいな感じで、色々雑多に読んできた。そして現在ではお金の関係であんまり読まない。

村上さんや大江さんの小説を面白いとは思っても、本人を尊敬するかと言われると、ちょっと……。

でもそんなもんだと思うんだけど。

マルドゥックスクランブルは色んな人が褒めてたけど、今、冲方さんを尊敬してると言い切るのはなかなか難しい。

るろうに剣心は好きでも、和月先生を尊敬するかというと微妙なラインでしょう。

そもそも、どうにもこうにも、面白い小説を書く人でも、尊敬と言われると、人間性は知らないし、というところがある。

あと、凄い面白い小説を書く小説家でも、現在の小説がなかなか売れない状況に対して「もともと、小説で食っていけるのがおかしい」みたいな事を言う奴が結構いて、僕はそういうのにカチンと来てしまうタイプなのだ。

 

 いやお前、散々自分は小説で飯を食っておいて、脚本業とかにも手を出せるようになった途端、もともとおかしいとか言い出すの、無責任すぎでしょ、と思う。

 普通の企業の方々を見ろよ、「昔は箒で掃いてたんだから、掃除機が売れるのがおかしいんですよ」とか言い出す電気屋とか技術屋がいるか?

 これは他のどんなもんでもいいけど「ラーメンなんて売れてたのがおかしいんですよ」とか「ゲームなんて売れるのがおかしいんですよ」とか、飲食屋や任天堂が言い出しますか?

 

 先人が、「もともとは食えなかった」分野である小説というものの存在価値、文化的価値を高めてくれて、いまや世界中で小説がない国はない状況になって、貴方もそれで食べさせてもらってましたよね?

 そこに胡坐かいて、もともと売れるのがおかしいからしょうがないっす、って言うのは、多少なりと怠慢ではあるんじゃないの。ましてや、苦しんでる若手とかもいるんだから、すっかり家でも御殿でも建てちゃったような連中がそれを言い逃げしてしまうのは、あんまり見ていて気持ちの良いものではない。

 

 しかもそれが、謙虚なリアリストみたいに解釈されたりして、なんだよこいつら、という気持ちがある。

 

 自分がそう思うようになったのは、格闘ゲーマー梅原大悟を見てから、かも知れない。

 実際は前から言語化できずにもやもやしていたが、「プロ格闘ゲーマー」というものが日本に存在せず、世界でも存在として曖昧だったものに、梅原大悟が形を与えていくのを、格闘ゲームファンは見てきたと思う。

 アメリカのフェイスブック社で講演やったり、著書が出たり、漫画が出たり、スイッチやレッドブルがスポンサーについたりと、「ウメハラ」は大活躍だけども、彼がもし「ゲームで飯を食えるなんてそもそもおかしいから」とか言い出して、プロゲーマー業界が縮小するような方向へ発言や活動をしていたら、今の日本の格闘ゲームシーンは無かっただろう。

 今も現在進行形で、後進のため、また自分自身のためでもあるだろうけども、プロゲーマーシーンというものを「所詮ゲームでしょ」と言われないために、なんとかかんとか、苦難しながらウメハラは切り開いていると僕は思う。

 

 そういう意味では、ウメハラは尊敬できる。

 

 しかし小説家たちは、「小説界」という世界が、余りにもあって当然なために、一つの文化的領域が、それが本来的に不必要なものだという事を忘れて、胡坐をかいている。

 「プロゲーマー業界」なんて、数年前には無かった、いつなくなってもおかしくないし、本来的には不必要だ。今だって逆風が吹いている。今この瞬間、これを読んでいる貴方でさえ、プロゲーマーなんて不要じゃない? と疑問を持つのではないか。

 

 小説というものも、かつてそうだった筈だ。

 

 小説なんて売れなくて当然っすよ、というのなら、それが売れて食べれている事で、先人たちの業績と、文化的貢献を想像しても良い筈なのに、傲慢に、諦めの言葉としてそれを言い放ってしまう。僕はそういうのに、ちょっとカチンと来る。

 本当に小説が売れなくなって、無価値なものになろうとしているのなら、それに抵抗するから「小説家」なんじゃないの。まあ、別に小説家に限らず、ある業界なり商品が縮小していく時に、もともと売れるのがおかしいっすから! って言う態度を取るのは、良くない時だってあるだろう。

 お前は散々飯食わせてもらって、更には客に金を払わせていたものの、文化的価値を信じてないなら、何を売ってたの? 詐欺?

 そりゃ、新商品が出て、ガチで無価値になってしょうがないものもあるけど、小説はそうじゃないでしょ。

 売れないなら、本来的には価値があるのに、売れなくなって悲しいし、なんとか良さを分かってほしい、みたいな方向に行くなら分かるけども、賀東招二とか、小説より、モンハンの方がいいんじゃないかぐらいの事を言ってたからね。

 その意味で、ちょっと批判的に見えたかもしれないけど、数日前に触れた野尻抱介のよく分からない「拘泥」の方が、小説家の矜持みたいなものを感じるし、究極言えば僕は野尻先生は別に嫌いじゃない。

 ただ、賀東招二の書く小説は普通に面白いからね、たまに超絶面白いものもある。

 でもなんかこう、一昔前の、暗い感じの純文学とかを割と遠回しにディスるんだよな。たぶん高橋和巳とか嫌いそう。

 賀東招二が馬鹿にするような過剰な苦難や拘泥の先に、なんとかかんとか文化的価値というものを作ってきたんだと僕は思うけども。

 

 まあ別に賀東さんに限らず、軽いノリで、小説なんて売れる方がおかしいっすから、って業界全否定するのは、もうちょっと考えてもいい。

 後進の小説家に遠回しなダメージ入ってる可能性あるからね。あ、先生がそう言うなら、読む必要ないんだ、ゲームやろ、って可能性も0じゃないでしょ。売れないなら、売れるべきだし、売れるように考えていく、というのが、普通の職業人じゃないかね。

 いまべつに小説家がそういう発言しても全然炎上とかしない普通の発言になってるけど、たまには、僕みたいな人間がこうやって、ネットの片隅で釘を刺してもいいんじゃないかなあ、と思った。

 俺も別にそういう発言一切するな、とは思わないけど、上記みたいなことを踏まえたら、今みたいにほいほい言って、それがクールな判断、みたいな価値までつくのは勘弁してほしい。

 大体「売れるのはおかしくない」からね。

 それだけの文化的価値があったはずでしょう?

 「売れるのがおかしい」みたいな価値観を、僕はすんなりとは受け入れたくないです。

 ではでは