けものフレンズ2の感想

 

けものフレンズ2を4話まで見たので、一旦、感想を述べたい。

 

5話で劇的な展開があったので、今後は全く違う感想になるかもしれないが、だからこそ、一旦、4話までの感想を記録する。

 

否定的な感想になることを前もって言っておきますので、見たくない方は読まないほうが良いです。

 

結論から言えば、余り面白くはない。

原因はいくつかある。

 

1 キャラクターが立っていない。

 

メインキャラが、カラカル、キュルル、サーバルの3人な訳だが、どのキャラも成功してるとは言えない。特にサーバルは、物語上でどのような役割を果たしているのかわからない。サーバルがいなくても話が進むレベルなので、そのような作劇は拙いと言われても仕方がないだろう。

 

世の中にはメインキャラが9人だの7人だのの物語もある中で、メイン3人組すら、ちゃんと物語上での役割を設定できないのは、かなりまずい事に思える。物語上の権能をまともに持たないキャラが、メインの3分の1を占め、画面に常に映っているのはノイズとなって物語を蝕む。

 

 また、主人公であるキュルルは、感情移入が難しいキャラだと感じている。

記憶喪失であり、物語はキュルルの家を目指す事で進んでいくのだが、キュルルが何を考えているのか私にはわからない。

アイデンティティが不安定で、だからこそ自分を取り戻すために家を探している筈なのだが、何故かキュルルは物語上でフレンズたちを導く役割を果たしてしまう。態度もそれに合わせ、基本的には堂々とふるまう。

彼が上から目線であるという批判を聞いたことがあるのだが、そう見えてしまうのは、立場の割に、余りにも平然としているからだと思われる。

庇護される対象のような役割なのに、何故かフレンズ達を教え諭す立ち回りをするので、設定と態度がちぐはぐで、キャラクターとして、のみこみづらい。

家へ戻りたいという危機感も、1話以外では伝わってこない。

キュルルが本当はどんな人間で、何を考えているのか、現状では分からず、余り魅力的に見えない。しゃべることはテンプレみたいな事しか言わないというのもある。

 

カラカルは比較的キャラが立っているが、余りにもテンプレ的なので、私はそれほど好きではない。まあ、カラカルは他二人よりはキャラが伝わるのは伝わるのだが、どうしても他人に強く当たる役回りのキャラなので、そこで好みが分かれるところではある。

 

ただ、キュルルが基本的に堂々として、フレンズ達ともコミュニケーションをとれるので、そもそもサーバルカラカルはついていく必要があるのか? という疑念が生まれる。結果、物語の中でキャラクターの立ち位置を決め損ねてしまっている印象がある。

 

また、キャラ付けも基本的には、取り立てて人格の面白みなどが伝わる演出もないので、薄味というか、サーバルちゃんに至っては感情のないBOTみたいになってしまっている。

キュルルも、キュルルといえばこれ、という人格の面白さを感じる場面はない。

カラカルはその意味では他の二人よりキャラが立っているのだが、ほかのアニメと比べれば薄めのキャラ付けではある。

キャラクターの立て方として、

A 物語世界の中で重要な位置を占め、その役割を十全に果たしている。

B きわめて個性的な性格で、視聴者を引き付ける

という二つの相乗効果で立っていくと思うのだが、物語の中で役割を持たなかったり、役割と人格がずれていて、理解しがたいキャラになってしまっていると、魅力はくすんでしまうように思われる。

 

 

2 シナリオの目的が曖昧

 

 この物語は、キュルルの家を探す物語の筈なのだが、このシナリオの「大枠」が実際に起きる出来事とかみ合っていない。

 キュルルの家を探すために、スケッチブックに描かれた場所に行くのだが、到着して得られるものは「ここには来たことあるみたいだった、ありがとう」だけである。

 スケッチブックに描いているのだから、来た事があるのは当たり前で、何も進んでいない。

 しかも移動手段が電車なので、「そもそも電車から降りなくていいのでは?」という疑念を抱かせる形になってしまっていた。(4話でようやく電車を捨てる)

 せめてバスなら、スケッチブックの場所をたどる事で家へ近づいている形になったかもしれない。(それでも、スケッチブックの場所へ行く事が家へ近づくことになる根拠は何なんだ? という話にはなるが)

 結果、理由は分からないがスケッチブックの場所へ行き、特に家へ近づいている要素を得ることはなく毎回終わる、という物語形式になってしまい、見ていて虚無感を覚える。

 メインストーリーのメインクエストなんだから、少しは興味を引くように作ったほうが良い。

 スケッチブックの場所へ行くたびに、謎めいた記憶がよみがえり、少しづつ真実と家への道を思い出す、という形式なら少しはマシだったと思われる。それでもまだ、ありがちでパンチが足りないメインシナリオだと思う。

 

 以上の点から、「メインキャラクター」と「メインシナリオ」に問題を抱えているので、退屈に感じられる、というのがおおまかな結論になる。

 

これは、一般的なアニメとしての評価で、前作との比較とかを抜きにしても、退屈と評価せざるをえない、という事でもある。

 

大枠は以上。

 

3 前作との比較

 

前作との比較の評価に移ると、物語構造はなぞっているのにパワーダウンしている感じは否めない。

そもそも、記憶喪失の人物がアイデンティティを求めて旅する、という大枠を完全にかぶせてきているので、どうしても比較してしまう面がある。

 

だがその比較の上で、いちいちキュルルのだす知恵が納得しかねるものばかりなのは引っかかる。

同じ二話でも、橋を造る、と、遊具を組み立てる、は意味も違うし、演出の冴えもかなり違った。

 

橋というのは物語上の意味が大きく、多くの困ったフレンズを助けているのがわかるようになっていたし、あの状態から橋を造るのは確かに知恵だと納得できた。

けもフレ2の遊具は演出が全く冴えない感じで、しかもできた遊具は、あっさりセルリアンに壊される。

そもそも、なんかいつのまにか遊具ができてて、知恵と言われても困るし、なぜ遊具を作らなければいけないかの納得がない。

川を渡れない→どうしよう→橋、というのはわかる。

場所が見つからない→遊具を作ったらその場所だった。は、簡単には納得できない。そもそも遊具の残骸を、明確には映していない。

 

この、「英知」が納得できない、というのは3話、4話、5話も同じである。

ご褒美をあげないと帰れない、というところから、いきなりボールや輪投げを行って、拍手したらご褒美として認められた、というのはもはや知恵ではない。お前らがそれで納得するならそれでいいけど・・・という感じしかない。視聴者への説得性が低いのではないか。

4話のパズルにいたっては、あれで納得できるというのは正気ではない。どうにも狩りごっこのほうが楽しそうなくらいだ。ルールとして狩りごっこの方が拡張性がありそうだ。

5話はライオン回の焼き直しだが、とんとん相撲で解決、というのはあまり説得性が高くない。サッカーの方がマシだろう。

 

どうにも、キュルルの英知は滑っているように感じる。こじつけと言っても良い。

大体、暇を潰さないといけないから、絵を破ってパズルにしました。というのは、物語上はやらなくてもよいことに見えてしまうし、別にみんなでお話をして過ごしても時間潰しくらいできただろうと思う。5人もいたんだし。

必然性がないから、退屈に思える。

 

また、前作のアライグマとフェネックは、追跡者という役割だけではなく、通り過ぎて行ったフレンズ達のその後を描く「システム」でもあった。

今作の追跡者はその「システム」になっていない。まあ、もともとゲストフレンズのその後に興味が持てる描きかたをしてないので、どっちにしろ不発になるのだが。

だから4話で早々に追いつくのに、余りにも無意味なシーンになってしまった。

 

 

 

4 個人的思い入れと、愚痴の話

 

自分は最初、2にはある程度の期待を寄せていた。

監督が、前作の良いところを引き継ぐと言ってくれたので、これはいけるのではないかと思った。

たつき監督降板は残念だが、けもフレ1を見ると、けもフレメソッドのようなものは読み取れるので、そこを外さなければいけるんじゃないかとおもった。

それはつまり、「キャラクターの見た目は人間で、人語を喋るが、人格は動物であり、その結果世界が優しくなる」という点さえ外さなければ、「アニメけものフレンズ」になる、という事である。

 

 それは過去の記事にも書いた。

www.yayakosiikedoomosiroi.com

 

 ここさえ外さなければ、と自分は思っていた。

ここさえ外さなければ大丈夫だ、と。

大変残念ながら、けものフレンズ2に出てくるフレンズは、「動物の特徴を持つ、人間の内面を持つ生き物」なので、コスプレと言われても仕方のないものでした。

しかも、やけにギスギスしている。

いや、普通のアニメ基準で言えば大したギスギスではないのだが、前作の優しかったフレンズが脳裏にあると、こいつら、ただのコスプレ人間やん! という衝撃が強い。 

ただのコスプレ人間になってしまうと、けものである、という事で担保されていたものを失い、キャラクターは、ただ頭が悪い感じにも見えてしまう。

ここは非常に残念である。アニメけものフレンズが、ほかのアニメと何が違うのか、その決定的な点が、人格が動物である、というところだったと思うから。

 

ところで、けものフレンズは悲しい騒動がいくつかあった。

人間が生きるのはつらく苦しい事だ。 

しかし、自分はあの騒動から、一つの慰めも得ていた。

 

たとえ何があったとしても、今でもこの同じ青い空の下、サーバルちゃんとかばんちゃんは一緒に冒険している。

 

これが大事な事なのだ。

 

二人は、おおくのものを愛し、おいしいものにも出会い、風のように駆けていく、青空に笑い声を響かせながら・・・・・・・きっと今でも、どこまでも。

 

そう考える事で勇気を得て生きてきた。

胸に希望がある、という事が、大事な事なのだ。

 

そういう人間にとって、第1話でのかばんちゃんのシルエットがどれほどの衝撃だったか。

いやお前、そこを匂わせるなら、ちゃんとやらんと許さんぞ。

俺はあの二人が、今でもどこかで慈しみあっている事を支えに生きてきたんやぞ。

なんかしらん間に分かれ分かれになってる風とか、お前、マジで、ちゃんと納得できる物語にしないと許さんよ、と思ってたところに5話である。

 

ポジティブにとらえれば、またあの二人が見れる、という期待もある。

ネガティブにとらえれば、心の中の聖域であるあの二人の状況を、めちゃくちゃにされるかもしれない。

 

どっちにしろ、こうなったらもう降りる事は出来ない。けものフレンズ2にどこまでも付き合うだけだ。