ネットに構築される言語ゲーム空間について

暫く仕事などで忙しく、何も書かなかった。

 

ただ、ぼんやりとネットを眺めていて、思う事があった。

 

Aという事件、炎上だったり、事件とは言えない感想だったりが、バズったりして広がる時に、言語ゲーム空間、という勝手な造語で呼ばせて貰うけど、そういうものが成立するのをよく見る。

 

たとえば、Aという事象に対して、Bという人が「Aは良くない」というような論をたてるのはよくある事だ。

 

ネットでは後発の人々が、そのBの意見を見ながら「そうだそうだ」とか言う訳だが、実際には更なるバズを狙うために、後発の人々は「Bの意見は確かにそうだが、より詳しく言うならばこうだ」というような『アップデート』を行おうとする。

 

これは無限に連鎖する傾向にあり、結果的に後発の人々は、Aという事象について語りながら、Bに対してマウンティングする、という傾向を持ちがちだ。Aを批判するBをマウンティングするCにマウンティングするD、みたいな感じだ。

 

また、マウンティングの方法として、Bは「Aは良くない」と言った訳だが、そもそも「Aは悪くない」という主張をするEが現れる訳である。これは成功すれば、BCDと続いたA批判陣営全員にマウンティングできるので効率が良くなる傾向にあるが、失敗すると逆張り野郎扱いになる。

 

しかしこのA擁護陣営の中でも、「Eの擁護は不完全で何故なら」と言い出すFが現れ、これもまた無限に続き、FGHと続く訳である。

 

A批判勢=BCD A擁護勢=EFG みたいな勢力図が出来て、後発の意見者はこれら全てにマウンティングする必要が出てくる。後発なのに、ただ、そうだそうだ、という意見では書く意味があまりない場合が多い。

 

そうこうしているうちに、BCDEFGが互いに反論したり擁護したりしながら参加者もHIJと増えて行き、議論が拡大していく。

 

こうして、言語ゲーム空間が立ち現われてくる。

 

ここで、擁護と批判を全て精緻に分析してマウンティングするのは難しいため、最も安易な手段として、言語ゲーム空間全体を否定する手法を思いつく者が現れる。

 

「お前らはネットで騒いでいるだけだが、俺は現実で行動する」というような理屈を言い出す者である。

 

しかしこれは大抵の場合、ただの安易な逃避であり、余り実のあるものでない場合も多い。何故なら、ネットで議論している人々も、当然に現実で活動し行動しており、ネットで議論だけしている訳ではない。

 

そもそも議論参加者の中に、現実で地道に何らかの問題について活動をしている者が混じっている場合もある。「お前たちは現実で行動していない」という場合、ネットの言論の後ろにはちゃんと現実で生きている人々がいる、という想像力を失っているだけの場合もある。

ネットにある言論だけが全てで、現実が見えなくなった結果、「お前たちは現実で行動していない」という観念に取りつかれている場合は、余り良い結果にならない可能性が高いと思われる。

「俺は現実で行動する」というのは、『ネット言語ゲーム空間』に影響され、遂に現実で行動してしまう訳だから、過剰にネットの言論に影響された結果、現実を浸食されてしまっているとも言える。ネットで議論している人間以上に、ネットの言語ゲーム空間を意識しすぎている。

 

余談だが、ツイッターなどでは、他人の意見を参照しようがないので、互いのマウンティングになる前に、一斉にお気持ちや意見を表明することになるので、炎上しがちかもしれない。

 

このような事を考えている内に、なんとなく、この言語ゲーム空間に参加するのが億劫になってしまった。

 

そもそも、Aという事象自体が、炎上狙いのチェリーピッキングだったりする場合もあり、参加しているBCDEFGも、そのAという事象に普段は全く興味がないのに、バズりそうだ、しめしめと思って参加する無関係者だったりする。

 

本当に自分が何か言う必要があるのか。

何か書く必要があるのか。

 

そう思うと、段々と書くのが億劫になるのである。

そんなことを思った。