創作に関する技術というのは、非常に曖昧なもので、目的自体は「物語を面白くする」というようなシンプルなものなのに、それを実現する技術は霧の中にある。
これは、料理の技術が丁度、実感しやすい距離に配置できる。
「面白い」は主観である。
「美味しい」も主観である。
しかし、「旨い料理」はあるし、「料理の技術」は存在する。
物語に決まりなどない、と嘯く人間は非常に多いが、決まりはなくても技術はあり、そこに何もないなら、王道もまた無い筈ではある。
ただ、料理はまだ実体としての物品が目の前にあるが、物語の技術には、料理の技術ほどの具体性はない。
塩を1g入れる、という訳にはいかないのだ。
また、「美味しい」と比べ「面白い」は変動が激しく感じられる。
20年前に、なろう小説を出版社に持ち込んで、果たして出版できただろうか。
そう、なろう小説は、かなり特異に感じられる。
旧型の物語技術者ならば、その展開などに駄目出しをしたくなるのではなかろうか。だが実際には、それが売れて評価されている以上、なろうが正しい筈である。
少なくても、序破急や起承転結や説得的な内面描写などを付け加えると面白くなる、と信じる事は無効化されるのではないか。
こうなってくると、物語の技術に果たして意味があるのかないのか、という事にもなる。
なろうに限らず、主観的には首を傾げるような小説というのは存在する。
自分の場合、魔法科高校の劣等生を読んだ時、ほとんど理解できず首を傾げた記憶がある。だがその後、大人気シリーズへと育っていった。
結局、物語の技術というのは、霧の中である。
先人たちの言っている事も、正しいとは限らない。
しかも、成功者たちは、自分達が物語理論に従っているから売れていると思いこみたがるのだが、単にそれは結果論で、運によるところが大きいと考えるのが自然ではないか。
創作者自らが語る創作論がさほど当てにならない事が少なくないのは、そのためだろう。
特に答えもないまま、ではでは