君の名は、ちょっと批判的

君の名は、については、公開された時に、映画館で見た。

宣伝はズバ抜けて上手かったと思う。超面白そうな映画に見えた。そして実際に見に行った訳だから、売れたのも理解できる。

まず連想したのは、細田監督の時をかける少女で、ああいう、「夏の青春恋愛アニメ映画枠」なのだろうと思った。

それでいて、人格入れ替わり!

男女恋愛! 超面白そう!

だが見終わった僕は、なんか思ったのと違うな、と思ったのだった。

当時書いた記録が残っている。

具体的に思った事。


1、男女入れ替わりものとしての設定が、あんまり機能していない。


入れ替わりものって、互いの生活の中にある問題点や課題が、違う視点が入る事で変わっていく、影響を与え合っていく、というところが、醍醐味だったりする。

一応、それっぽいシーン(奥寺先輩、ちゃらい3人)はあるものの、本当に表面を触れるだけで大して描かれない、と僕は思ってしまった。

真面目に入れ替わりをやるなら、変わっていく生活と、その変わる生活を通して、互いの価値観、生き方、悲しみや楽しみを知る、という流れだと僕は思っている。

その流れで恋に落ちるなら、恋愛ものとしても入れ替わりものとしても理解できるが、君の名は、の瀧に関しては、遂に家族さえ描かれない。匂わせるだけだ。

たとえばベタだけど、瀧の母親が死んでいて、それによる孤独や寂しさなどを、段々と三葉が理解していくシークエンスなどがあれば、恋愛感情にもある程度説明がついただろう。というか、瀧も三葉も優等生過ぎて、入れ替わりによる問題解決と相互理解が、いまいち描かれていない。


その代わりに君の名はどうやって入れ替わりを処理したかというと、「かっこういい音楽と共にPV風に流す」という手法で、この手法に納得できるかどうかで、この作品への評価も変わると思われる。他にも色々、細かな部分が雑に流されたような、主観的印象はある。

日記を互いにつける事になる経緯とか、かっこいいPVですっとばしちゃったけど、なんかもっと色々あるんじゃないの? って気持ちはある。

日記のやりとりで互いの人格に触れて、少しづつ好きになるとか、そういう繊細な描写が、入れ替わりものや恋愛ものとして大事な描写で、そこを飛ばしてしまったこの映画はどうなってしまうのか、という問題はある。

で、入れ替わりものの「美味しいところ」を全部吹っ飛ばしたこの映画は、大災害ものへと話をシフトさせます。三葉の住んでいる場所は、隕石で破壊されてしまう。入れ替わりは、時間を戻る手段であり、それによって破滅を回避できるのか? という話になる。

これは、タイムリープ破滅回避もの、災害回避ものみたいな物語類型ですね。

しかしこれも、新海監督は真面目にやる気はない、というのが見た印象です。

もし大災害ものを真面目にやるなら、やはり恰好いい音楽で展開を吹っ飛ばすのは荒井やり方で、あの糸森で生きる人々と、災害を避けるための伏線を積み重ねる必要があるからです。

そもそも、糸森の生活描写は、終始、三葉というキャラの「説明」でしかない印象です。

本当に災害回避ものをやりたかったら、入れ替わりの「途中」で気づいた方がいいと思う。

「あと二回しか入れ替われない! 何とかしなきゃ!」という危機感の中で、切ないほど美しい糸森の光景が、失われたものであり、そこにある友情も、死んでいった人々の亡霊のようなものである、そんな苦しさを観客に味あわせつつ、崩壊するのを知っているのは瀧と三葉だけ、日記の交換でそれを知り、世界で二人だけ真実を知る二人になる。入れ替わりは残り一回、そして入れ替われなくなり、全ては失われたかに思えたが。それでも、瀧は糸森の跡地へ向かう・・・とかそんな展開になった筈です。

大体こんな感じで行けば、瀧と三葉は、世界で二人だけの特別な存在になるし、必死に糸森を救おうとする瀧に三葉は惚れても良いでしょう。また、ひぐらしの泣く頃に的な、絶望のエンドを希望に変える話になるし、救済への伏線も貼りやすい。

でも実際に新海監督がやった事は、入れ替われなくなってから糸森の破滅を知る、という展開で、「じゃあ終わってんじゃん」としか言いようのない状況で、そこで「なんでか分からないが奥寺先輩と、ろくに掘り下げられていないメガネキャラと一緒に糸森を探す」というどうしようもない状況になる

まあ一応、時間がずれてたんだ、糸森は破滅してたんだ、という衝撃展開、が出来た、と言えば、出来た、けど、途中でいい気がするんだよなあ。入れ替わり終わってからでなくても、衝撃展開に出来る気がする。


そんで後半は怒涛の超展開なんだけど、何故か口噛み酒を飲むともう一度入れ替われて、そして入れ替わったら、同じくろくに掘り下げなかった親友が何故か爆薬を作れたり、村の放送に詳しかったり(便利すぎるだろ)、何故か率先して爆発物を扱う犯罪者になるのも厭わなかったり・・・

ご都合の嵐吹き荒れる展開になります、丁寧に伏線を張れば、それほどご都合と感じなかっただろうに、そもそも、避難放送をしたいだけなのに、爆破する必要があったのか?(爆破シーンを入れて盛り上げたかっただけでは?)町長を説得できるなら、そもそも爆破する必要もないのでは?

とにかく、恰好よくPV流して展開すっ飛ばしたシワ寄せが襲いかかってきます。そして当然ですが、町長は隕石が落ちるなんて信じません。打つ手なしか? というところで、突然、三葉、来たのか、とか言い出してご神体のところに向かう訳ですが、僕はどうにも乗れない。

ここで、三葉と会ったからって、隕石落下が防げると思えないし、どうすんの? と思ってたら、なんか、恋愛シーンが始まる訳です。いや、今にも隕石落ちそうなのに、そんな事してる場合!? みんな、こういう恋愛シーンを否定してた筈なのに、何で全肯定なの!?500人が死ぬんですよ!?

そして恐ろしい事に、何の解決も授けられないまま恋愛シーンが終わり、え?どうすんの? と思ってたら、町長のところへ向かい、町長と出会い、その後の展開はカットされます。災害回避ものとしてここで破綻してしまう。どうすんの? と思わせて、どうするかは説明しないってのはちょっとなあ。

少なくても一度、極めて常識的意見で町長が意見をはねのけるシーンを入れてしまった以上、同じ理由で町長は、はねのける筈で、それを超えた意見を言うシーンを入れないと、通常納得しがたい筈なのに、そこをカットしてしまう。思いつかないから飛ばしたんじゃないのか、と思っても仕方ない気がする。

というか、新海監督は究極、肉体入れ替わりにも、大災害回避ものにも、興味がないんだ、という事をひしひしと感じます。500人が生きるか死ぬか、果たして起死回生の手段は!? という文脈で見てれば、あの瀧君との恋愛シーンにはついて行けなくなる。つまり、そういう文脈で作ってない。

実は新海監督という人は、ただ一つの事にしか興味がなく、15年近く、それだけをやってきた稀有な人で、僕はそれについていけないと思ったけど、15年これだけをやっているという事実は単純に凄いです。


要は、新海監督は「運命の二人がすれ違う」ただこれだけを、15年やってきた人で、何で肉体入れ替わりも大災害回避も、割と適当に扱うかと言えば、冒頭と最後の、「運命の二人」が上手く出会えない、をやりたいからでしょう。

ぼくはほしのこえから、15年ぶりくらいに新海作品を見ましたが「この人変わってねえ!」というのに驚愕しました。「すれ違いもの」だけを15年やるとか正気じゃない。ここまで行けば、作家性と言ってもいいと思う。同じシチュエーションを、頼まれても無いのに15年もやれないよ、普通。

肉体入れ替わりも、大災害も、「すれ違いもの」へ向かうための前振り、オマケでしかなくて、こんなに凄い運命的な二人なのに都会の雑踏の中で忘れて出会えない、ああ、なんて切ない! これが、新海監督がやりたくて15年やってきたことなんだけど、僕はそこまで乗れない。

一度完全に失われた、糸森と三葉、そういう絶望的切なさと、時間と運命をねじまげ、救済を迎えたのに、それでも出会えないすれ違い、という、「すれ違いの二段重ね」という面で進化はしている。でもそれをどう評価するか、という話ではある。

脚本は正直破綻気味で、キャラクターもまともに掘り下げられているとは言い難い。瀧でさえ、どういう人間なのか、はっきり分からないと僕は思う。どういう家族関係で、どう生きてるのかいまいち分からない。

しかし、新海監督の、恐るべき「すれ違い」へのこだわりだけは感じられた。そんな印象でした。