けものフレンズ2、6話見ました。
基本的には全く褒めません。それでもよければどうぞ。
感想、こんな事が許されるのか?
「私はけものフレンズ2の製作陣に腹は立たないし、手を抜いているとも思わないが、バーチャルさんは見ているの制作陣には疑念を抱く。」
と、書いたが、この発言は取り下げる。
「一期の最後、ゴコクエリアへ向かったサーバルとかばんとボスの旅は、サーバルがセルリアンに食べられて悲劇に終わります」
よーし、この設定を見たら、きっと1期のファンは喜ぶぞ!
などと考える人間がいたら、そいつはサイコパスでしょう。
何故これを出してきた?
これを見せられた一期のファンが悲嘆にくれることなど、素人の私でもわかる。監督や脚本家はプロであり、物語制作のプロであるという事は、作った物語に対して「客がどう感じるか」を見定めるプロという事である。
こうなる事はわかっていたはずだ。
監督はアイカツが51話になったら、いちごが暴漢に刺されて記憶喪失になって、あおいの事やもろもろすべてをセイラに託して表舞台を去る、とかやらなかったでしょ。もしやったらどう思われるかわかる筈だし、やる意味もないから。
脚本のますもと氏も、1977年生まれで、デビューしてから10年以上経っている。だからおそらく「一期のサーバルとかばんの仲をズタズタに裂いたら、きっと1期のファンは喜ぶぞ!」などと考えた訳ではないだろう。正気の人間はそんな風には考えない。
ちょっと前の記事にも、けものフレンズ2の感想は書いた。
www.yayakosiikedoomosiroi.com
この6話は、もはや悪意だ。
これに悪意を感じるのは被害妄想だと言う者もいるが、それなら製作陣は
「ゴコクエリアへ向かったサーバルとかばんとボスの旅は、サーバルがセルリアンに食べられて悲劇に終わる」という設定で、客が喜ぶと思ったのか?
そんなプロは、恐らくいない。
6話は、物語よりも、製作の都合ばかり目につく。
今後のけものフレンズに、かばんちゃんが邪魔だ、という意思だ。
少なくても、かばん・サーバル、というコンビを解消させようという意図は感じた。
サーバルはすべての記憶をなくして、なんかやさぐれたかばんちゃんと出会うけど、サーバルの事はカラカルとキュルルに託すので、あのコンビは絶対復活しません、という意思である。
もし、今後コンビを復活させるなら、「あの子の事、頼むね」という演出にはならないのではないか。
監督や脚本という現場よりも、もっと上の意思を感じさせる内容だった。
まあもしかしたら、完全に製作陣がイカれていて、1期の11話のかばんちゃんの自己犠牲や、優しい世界をすべて無意味にすることで、1期ファンが喜ぶと思ったのかもしれない。
サーバルちゃんが記憶を失わないために、かばんちゃんは自己を投げ出した。しかし、結局はサーバルちゃんは記憶を失った。すべては無意味だった、うれしいでしょう? という訳だ。
どこのイカレ野郎なんだよ、これをOKしたのは。
自分は以前の記事で、こう書いた。
「ところで、けものフレンズは悲しい騒動がいくつかあった。
人間が生きるのはつらく苦しい事だ。
しかし、自分はあの騒動から、一つの慰めも得ていた。
たとえ何があったとしても、今でもこの同じ青い空の下、サーバルちゃんとかばんちゃんは一緒に冒険している。
これが大事な事なのだ。
二人は、おおくのものを愛し、おいしいものにも出会い、風のように駆けていく、青空に笑い声を響かせながら・・・・・・・きっと今でも、どこまでも。
そう考える事で勇気を得て生きてきた。
胸に希望がある、という事が、大事な事なのだ。」
よりにもよって、6話はこの希望を完全に踏みにじるものだった。
1期の最終話から想像される、優しい三人の冒険の夢は砕かれた。これがいかに罪深い事か。
自分は外野の人々の、どうにも本当はけものフレンズに興味がないのに、わいわい口を突っ込む人々の言葉には乗れない。
しかし、1期ファンの怒りは分かる。過剰な悪ノリの、監督とかに突っ込んで行く唾棄すべき人々は論外だとしても、そりゃ怒るだろう。
いや、怒りの前に、悲しみがある。
あの優しくて、聡く、勇気のあった3人の冒険を悲劇で蹂躙することが、悲しみを生むのは当然じゃないのか。
そもそも、そこまでして作られた6話に、物語的な意義が全く見いだせない。
別にかばんちゃんである必要性がないし、(別になんかオランウータンのフレンズとかでも話は通りそうだ)
別にサーバルちゃんを出す必要がないし(すごーいBOTになっている)
全く意味がないようにしか見えないのに、その無意味で退屈なもののために、1期を踏みにじってしまっている。
というか、けものフレンズはそういう悲劇的な話を全面に押し出すようなものではないんじゃないのか。
「ゴコクエリアへ向かったサーバルとかばんとボスの旅は、サーバルがセルリアンに食べられて悲劇に終わる」という設定は、1期のファンを明らかに傷つけるだろう。そんなことはわかっていたはずで、6話は結局、ファンを傷つける凶器になってしまっている。
傷つけるために作られ、実際に傷つけられた。
それで、いったいそれになんの意味があるんだ?
傷つけると分かっていて、この設定を出してきたなら、それは「悪意」と言われてしまっても、仕方ないんじゃないのか。
結構丁寧に6話は、可能性を潰している。
たとえば僕の友達は、このかばんさんは、8代目かばんとかかも知れない。と言っていたが、最後の「あの子の事、頼んだよ」というセリフでそれを打ち砕かれていた。
カラカルが、サーバルが一緒に旅したフレンズってあんたじゃないの? と指摘して「あの子の事、頼んだよ」と言ってくるという事は、つまり、このかばんはサーバルと旅をしたかばんである。
僕らの知っているかばんとサーバル以外に、一緒に旅をしたかばんとサーバルがいた、などというのは余りにも牽強付会だし、偶然が過ぎるので(全く新しいかばんとサーバルが、たまたま一緒に旅をする必然性はない)、ここはオッカムのカミソリをだすまでもなく、素直にこのかばんは、あのかばんなのだと考えるしかないだろう。
素直に考えれば、1期のかばんが、こうなったのだ。
この後、かばんとサーバルのコンビが復活するかも、という希望も、あの演出を見る限り望み薄だ。「託す」という風に、ポジティブ風味に演出したものは覆しにくい。
また、サーバルが食べられて記憶を失ったというのも、食事シーンの演出を素直にとらえれば間違いない事になる。(わざわざ話の脈絡を無視して、セルリアンに食べられたらどうなるかを説明し、サーバルの記憶の欠落について演出されていたので、素直にとらえればそうなる)
これらのある意味丁寧な演出によって、「この二人は1期の二人であり、1期のサーバルはセルリアンに食べられて記憶を失いました」という事をくみ取らせるようになっている。託す、とポジティブに演出することによって、サーかばコンビ復活の可能性も潰す。
何故その説明の演出だけ丁寧にやるんだ?
これを見て、サーバルとかばんの別れの切なさに感じ入れとでも?
ただただ、1期や、その思い出や、希望に泥を塗られ、どうしても悪意を感じてしまうし、悪意と取られても仕方のない演出も多い。
「帰ったらやるよ」となんかムッとした感じのかばん。
引き出しに仕舞われるボス。
この辺の演出は、1期ファンをぎょっとさせる。
物語制作のプロであるという事は、作った物語に対して「客がどう感じるか」を見定めるプロという事の筈だ。
少なくても、1期ファンを喜ばせようと思ったらこうはならないはずで、そうなると矢張り、何らかの悪意ではないかと思ってしまう。
それは監督や脚本というより、もっと上の何かという気がするけども、
自分はなんだか少し、疲れてしまった。