ユーフォニアムの映画みてきた

なんかいろいろあったけど、とりあえず映画を見てきた。

 

完全にファン向け映画なんだけど、すでにユーフォファンだったから問題なかった。

原作読んでるせいでシナリオが分かってしまっているせいで、全く客観的には見ていない。

俺はもう、原作読んだときに、見たかった「絵」を見てるだけで喜んでいるファンボーイであり、シナリオ云々は、原作知識があるせいですべてが・・・すべてが分かる! 俺はもしかして、予知能力者だったのか!? というレベルで展開も、キャラクターの心情も完全にわかっている状態だったので、シナリオを評価することは不可能だった。

 

恐らく「楽しもう」という前のめりな気持ち以外が途中から消えていたので楽しめた。

 

一応、冷静に見たら、この映画だけいきなり見たら意味わからんとは思う。

 

いろんな女子高生の「感情」に熱くなっていただけなので問題ないといえばないが、ユーフォニアムは結構バランスを見てるな、とも思った。

 

満場一致で全国金賞目指すのを決める場面とか、かなり「やばい」描写になりかねない空気があって、しかしその空気から逃げないのは偉いな、とも思った。

 

「やばい」と言ってるのは、いわゆる「全体主義」とか「ブラック部活」みたいな空気だ。

 

ユーフォは割と真面目に、リアリティに配慮があって、全員が全員、部活最高、って訳ではなく、むしろ、部活なんてバカバカしいんでは? という疑念をちゃんと描きながらエンターテイメントを破壊しもしない、というバランスで、これは巧の技だな、と思った。

 

スラムダンクで、全国行くの意味なくない? なんて話になる訳がないので、これは京アニなりに色々あってのこの境地と、原作の雰囲気の合わせ技だと思う。

 

映画のエンディング曲はいる前の、久美子と奏のやりとりの演出が、特にバランスのとり方が巧みだな、と思った。ばかばかしい、とは言わせるけど、それを否定はしない、しかし、演出は語っている、という含みが上手い。

 

正直、映画見るかどうか凄い迷ったけど、まあ、この路線をやってるのはユーフォだけなので、それだけでユーフォには価値がある。

 

スポ根風なのに、部活をバカバカしいと言わせて否定しない、しかし・・・というそのバランスで描かれている物語は多くない。

この場合、結論を出すのではなく、出さないのが偉い。

部活は馬鹿馬鹿しくない、とか、馬鹿馬鹿しい、とか、そのどっちでもないのが偉い。

どっちでもないけど、ちゃんと説得的に描けている、という話は多くないと思う。

 

ただまあ、やっぱり、ちゃんとテレビシリーズ13話やってほしかった、とは思いました。

 

けものフレンズ2 6話

 

けものフレンズ2、6話見ました。

 

基本的には全く褒めません。それでもよければどうぞ。

 

 

 感想、こんな事が許されるのか?

 

「私はけものフレンズ2の製作陣に腹は立たないし、手を抜いているとも思わないが、バーチャルさんは見ているの制作陣には疑念を抱く。」

 

と、書いたが、この発言は取り下げる。

 

「一期の最後、ゴコクエリアへ向かったサーバルとかばんとボスの旅は、サーバルがセルリアンに食べられて悲劇に終わります」

 

よーし、この設定を見たら、きっと1期のファンは喜ぶぞ!

 

などと考える人間がいたら、そいつはサイコパスでしょう。

 

何故これを出してきた?

 

これを見せられた一期のファンが悲嘆にくれることなど、素人の私でもわかる。監督や脚本家はプロであり、物語制作のプロであるという事は、作った物語に対して「客がどう感じるか」を見定めるプロという事である。

 

こうなる事はわかっていたはずだ。

 

監督はアイカツが51話になったら、いちごが暴漢に刺されて記憶喪失になって、あおいの事やもろもろすべてをセイラに託して表舞台を去る、とかやらなかったでしょ。もしやったらどう思われるかわかる筈だし、やる意味もないから。

脚本のますもと氏も、1977年生まれで、デビューしてから10年以上経っている。だからおそらく「一期のサーバルとかばんの仲をズタズタに裂いたら、きっと1期のファンは喜ぶぞ!」などと考えた訳ではないだろう。正気の人間はそんな風には考えない。

 

ちょっと前の記事にも、けものフレンズ2の感想は書いた。

 

www.yayakosiikedoomosiroi.com

 

 

この6話は、もはや悪意だ。

これに悪意を感じるのは被害妄想だと言う者もいるが、それなら製作陣は

「ゴコクエリアへ向かったサーバルとかばんとボスの旅は、サーバルがセルリアンに食べられて悲劇に終わる」という設定で、客が喜ぶと思ったのか?

そんなプロは、恐らくいない。

6話は、物語よりも、製作の都合ばかり目につく。

今後のけものフレンズに、かばんちゃんが邪魔だ、という意思だ。

少なくても、かばん・サーバル、というコンビを解消させようという意図は感じた。

サーバルはすべての記憶をなくして、なんかやさぐれたかばんちゃんと出会うけど、サーバルの事はカラカルとキュルルに託すので、あのコンビは絶対復活しません、という意思である。

もし、今後コンビを復活させるなら、「あの子の事、頼むね」という演出にはならないのではないか。

 

監督や脚本という現場よりも、もっと上の意思を感じさせる内容だった。

 

まあもしかしたら、完全に製作陣がイカれていて、1期の11話のかばんちゃんの自己犠牲や、優しい世界をすべて無意味にすることで、1期ファンが喜ぶと思ったのかもしれない。

 

サーバルちゃんが記憶を失わないために、かばんちゃんは自己を投げ出した。しかし、結局はサーバルちゃんは記憶を失った。すべては無意味だった、うれしいでしょう? という訳だ。

 

どこのイカレ野郎なんだよ、これをOKしたのは。

 

自分は以前の記事で、こう書いた。

 

「ところで、けものフレンズは悲しい騒動がいくつかあった。

人間が生きるのはつらく苦しい事だ。 

しかし、自分はあの騒動から、一つの慰めも得ていた。

 

たとえ何があったとしても、今でもこの同じ青い空の下、サーバルちゃんとかばんちゃんは一緒に冒険している。

 

これが大事な事なのだ。

 

二人は、おおくのものを愛し、おいしいものにも出会い、風のように駆けていく、青空に笑い声を響かせながら・・・・・・・きっと今でも、どこまでも。

 

そう考える事で勇気を得て生きてきた。

胸に希望がある、という事が、大事な事なのだ。」

 

よりにもよって、6話はこの希望を完全に踏みにじるものだった。

1期の最終話から想像される、優しい三人の冒険の夢は砕かれた。これがいかに罪深い事か。

自分は外野の人々の、どうにも本当はけものフレンズに興味がないのに、わいわい口を突っ込む人々の言葉には乗れない。

しかし、1期ファンの怒りは分かる。過剰な悪ノリの、監督とかに突っ込んで行く唾棄すべき人々は論外だとしても、そりゃ怒るだろう。

いや、怒りの前に、悲しみがある。

あの優しくて、聡く、勇気のあった3人の冒険を悲劇で蹂躙することが、悲しみを生むのは当然じゃないのか。

 

そもそも、そこまでして作られた6話に、物語的な意義が全く見いだせない。

 

別にかばんちゃんである必要性がないし、(別になんかオランウータンのフレンズとかでも話は通りそうだ)

別にサーバルちゃんを出す必要がないし(すごーいBOTになっている)

 

全く意味がないようにしか見えないのに、その無意味で退屈なもののために、1期を踏みにじってしまっている。

 

というか、けものフレンズはそういう悲劇的な話を全面に押し出すようなものではないんじゃないのか。

 

「ゴコクエリアへ向かったサーバルとかばんとボスの旅は、サーバルがセルリアンに食べられて悲劇に終わる」という設定は、1期のファンを明らかに傷つけるだろう。そんなことはわかっていたはずで、6話は結局、ファンを傷つける凶器になってしまっている。

 

傷つけるために作られ、実際に傷つけられた。

 

それで、いったいそれになんの意味があるんだ?

 

傷つけると分かっていて、この設定を出してきたなら、それは「悪意」と言われてしまっても、仕方ないんじゃないのか。

 

結構丁寧に6話は、可能性を潰している。

たとえば僕の友達は、このかばんさんは、8代目かばんとかかも知れない。と言っていたが、最後の「あの子の事、頼んだよ」というセリフでそれを打ち砕かれていた。

カラカルが、サーバルが一緒に旅したフレンズってあんたじゃないの? と指摘して「あの子の事、頼んだよ」と言ってくるという事は、つまり、このかばんはサーバルと旅をしたかばんである。

僕らの知っているかばんとサーバル以外に、一緒に旅をしたかばんとサーバルがいた、などというのは余りにも牽強付会だし、偶然が過ぎるので(全く新しいかばんとサーバルが、たまたま一緒に旅をする必然性はない)、ここはオッカムのカミソリをだすまでもなく、素直にこのかばんは、あのかばんなのだと考えるしかないだろう。

素直に考えれば、1期のかばんが、こうなったのだ。

この後、かばんとサーバルのコンビが復活するかも、という希望も、あの演出を見る限り望み薄だ。「託す」という風に、ポジティブ風味に演出したものは覆しにくい。

また、サーバルが食べられて記憶を失ったというのも、食事シーンの演出を素直にとらえれば間違いない事になる。(わざわざ話の脈絡を無視して、セルリアンに食べられたらどうなるかを説明し、サーバルの記憶の欠落について演出されていたので、素直にとらえればそうなる)

 

これらのある意味丁寧な演出によって、「この二人は1期の二人であり、1期のサーバルはセルリアンに食べられて記憶を失いました」という事をくみ取らせるようになっている。託す、とポジティブに演出することによって、サーかばコンビ復活の可能性も潰す。

 

何故その説明の演出だけ丁寧にやるんだ?

 

これを見て、サーバルとかばんの別れの切なさに感じ入れとでも?

 

ただただ、1期や、その思い出や、希望に泥を塗られ、どうしても悪意を感じてしまうし、悪意と取られても仕方のない演出も多い。

「帰ったらやるよ」となんかムッとした感じのかばん。

引き出しに仕舞われるボス。

この辺の演出は、1期ファンをぎょっとさせる。

 

物語制作のプロであるという事は、作った物語に対して「客がどう感じるか」を見定めるプロという事の筈だ。

 

少なくても、1期ファンを喜ばせようと思ったらこうはならないはずで、そうなると矢張り、何らかの悪意ではないかと思ってしまう。

 

それは監督や脚本というより、もっと上の何かという気がするけども、

 

自分はなんだか少し、疲れてしまった。

バーチャルさんは見ている、感想

バーチャルさんは見ている、を見たのだが、否定的な感想を書く。

 

私はけものフレンズ2の製作陣に腹は立たないし、手を抜いているとも思わないが、バーチャルさんは見ているの制作陣には疑念を抱く。

 

疑念の原因は、

 

1 短い制作期間

 

確か庵野は短くても作れるとか言ってたけど、じゃあ何でお前のエヴァの映画はいつまでたっても公開されねえんだよ、って話なので、あれは話半分の武勇伝でしかないと思われる。一般的なアニメと同じだけの制作期間をなぜ設けないのか?

 

2 アニメの専門家ではないスタッフ

監督はニコニコの社員であり、アニメの制作経験も、バラエティ番組の制作経験もない。脚本もアニラジの脚本しか書いた事がない。これが本気でアニメを作ろうと思って組んだ座組なのか?

 

3 ずさんな内容

ちゃんとアニメを作ろうとか、ちゃんとバラエティを作ろうとか、考え抜いてこの内容になったという事を信じる事が出来ない。

 

 

この3点について、やや妄想的に掘り下げる。

 

1 何故製作期間が短いのか?

私が妄想する製作の本音は、

「バーチャルユーチューバーの人気なんて、半年後にはどうなってるかわかんないし、今、適当に人気のⅤチューバーを出して25分くらい動画流せば、ファンはバカだから買うだろ?」

という風なものである。

もちろん、これは妄想だが、妄想だが、何故一般的な制作期間を設けない? もちろん、製作期間が短いほうがコストも安くはなる。

極めてなにか、侮辱されている気持ちになる。

 

2 何故、バラエティでも、アニメでもない、訳のわからないスタッフで制作するのか?

 

監督を内部の人間にしてコストカット、脚本もプロを呼ばずにコストカット、コストをかけないという事は、つまり、内容はちゃんとする気がないという事である、何故なら「適当に人気のⅤチューバーを出して25分くらい動画流せば、ファンはバカだから買うだろ?」というのが本音だからではないのか。

そうでないなら、きちんとプロを呼んで、バラエティやるならバラエティ、アニメをやるならアニメを作ったはずだ。

バーチャルユーチューバー業界は、舐められたんじゃないのか?

 

3 低予算、短い製作期間なりの工夫もしない。

 

てさぐれ方式を採用することもできたし、開き直ればニンジャスレイヤーフロムアニメイシヨン方式もできたかもしれない。

少なくても、今のカメラワークやコーナーの作り方はありえない。

ほとんどすべてのコーナーが、オチをつけず、なげっぱなしにしてしまうのは何でなのか。

というか、低予算ならもう、出演者のアドリブ任せにしたほうが、まだ安く、楽しめるものになっただろう。

この全編に漂う舐めた感じが、非常に侮辱を感じる。

 

それでいて、バーチャル業界の発展を願って、とエンディングに出してくる。

 

この辺でもう、ドワンゴやとばっちりでカドカワなどへの感情が膨れ上がるわけだが、

自分が思うに、もしちゃんとバーチャルユーチューバーをアニメ化するなら、アイドルアニメ方式が適正ではないかと思った。

もちろん、てさぐれでもいいのだが、あれはあれでちゃんとしたアニメとはちょっと違うので、ラブライブアイドルマスターに近づける方がよさそうだとは思う。

アイドルアニメは、声優とキャラクターをオーバーラップさせる手法をよく使う。

中の人とキャラクターの混同を起こさせやすくする仕掛けである。

これはⅤチューバーと相性が良いように思われる。

設定としては、ある日、にじさんじに出会って、配信を始める、というところからスタートだろうか。

Ⅴチューバーは基本的に、「配信者である」というのが最大の共通点となるし、配信をする人、というのはⅤチューバーの定義から外しづらいところではある。

配信をすることで、楓と美兎は出会い、どんどん大きなムーブメントになり、楓はゼップを満員にする、というような方向性でアニメにしていき、現実でも楓と美兎のライブを行う、というような方向性でええんちゃうか。

これはさすがに雑すぎるけど、一期生が、ラブライブならぬ、Ⅴチューバーライブで優勝を目指し、アライズならぬ、キズナアイ、シロ、あかりのユニットと戦う。みたいな、ラブライブ一期風でええんちゃうか。8人でライブ曲とかバンバン出せばペイできそう。

 

そんなことをおもいました。

 

 

けものフレンズ2の感想

 

けものフレンズ2を4話まで見たので、一旦、感想を述べたい。

 

5話で劇的な展開があったので、今後は全く違う感想になるかもしれないが、だからこそ、一旦、4話までの感想を記録する。

 

否定的な感想になることを前もって言っておきますので、見たくない方は読まないほうが良いです。

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ネットに構築される言語ゲーム空間について

暫く仕事などで忙しく、何も書かなかった。

 

ただ、ぼんやりとネットを眺めていて、思う事があった。

 

Aという事件、炎上だったり、事件とは言えない感想だったりが、バズったりして広がる時に、言語ゲーム空間、という勝手な造語で呼ばせて貰うけど、そういうものが成立するのをよく見る。

 

たとえば、Aという事象に対して、Bという人が「Aは良くない」というような論をたてるのはよくある事だ。

 

ネットでは後発の人々が、そのBの意見を見ながら「そうだそうだ」とか言う訳だが、実際には更なるバズを狙うために、後発の人々は「Bの意見は確かにそうだが、より詳しく言うならばこうだ」というような『アップデート』を行おうとする。

 

これは無限に連鎖する傾向にあり、結果的に後発の人々は、Aという事象について語りながら、Bに対してマウンティングする、という傾向を持ちがちだ。Aを批判するBをマウンティングするCにマウンティングするD、みたいな感じだ。

 

また、マウンティングの方法として、Bは「Aは良くない」と言った訳だが、そもそも「Aは悪くない」という主張をするEが現れる訳である。これは成功すれば、BCDと続いたA批判陣営全員にマウンティングできるので効率が良くなる傾向にあるが、失敗すると逆張り野郎扱いになる。

 

しかしこのA擁護陣営の中でも、「Eの擁護は不完全で何故なら」と言い出すFが現れ、これもまた無限に続き、FGHと続く訳である。

 

A批判勢=BCD A擁護勢=EFG みたいな勢力図が出来て、後発の意見者はこれら全てにマウンティングする必要が出てくる。後発なのに、ただ、そうだそうだ、という意見では書く意味があまりない場合が多い。

 

そうこうしているうちに、BCDEFGが互いに反論したり擁護したりしながら参加者もHIJと増えて行き、議論が拡大していく。

 

こうして、言語ゲーム空間が立ち現われてくる。

 

ここで、擁護と批判を全て精緻に分析してマウンティングするのは難しいため、最も安易な手段として、言語ゲーム空間全体を否定する手法を思いつく者が現れる。

 

「お前らはネットで騒いでいるだけだが、俺は現実で行動する」というような理屈を言い出す者である。

 

しかしこれは大抵の場合、ただの安易な逃避であり、余り実のあるものでない場合も多い。何故なら、ネットで議論している人々も、当然に現実で活動し行動しており、ネットで議論だけしている訳ではない。

 

そもそも議論参加者の中に、現実で地道に何らかの問題について活動をしている者が混じっている場合もある。「お前たちは現実で行動していない」という場合、ネットの言論の後ろにはちゃんと現実で生きている人々がいる、という想像力を失っているだけの場合もある。

ネットにある言論だけが全てで、現実が見えなくなった結果、「お前たちは現実で行動していない」という観念に取りつかれている場合は、余り良い結果にならない可能性が高いと思われる。

「俺は現実で行動する」というのは、『ネット言語ゲーム空間』に影響され、遂に現実で行動してしまう訳だから、過剰にネットの言論に影響された結果、現実を浸食されてしまっているとも言える。ネットで議論している人間以上に、ネットの言語ゲーム空間を意識しすぎている。

 

余談だが、ツイッターなどでは、他人の意見を参照しようがないので、互いのマウンティングになる前に、一斉にお気持ちや意見を表明することになるので、炎上しがちかもしれない。

 

このような事を考えている内に、なんとなく、この言語ゲーム空間に参加するのが億劫になってしまった。

 

そもそも、Aという事象自体が、炎上狙いのチェリーピッキングだったりする場合もあり、参加しているBCDEFGも、そのAという事象に普段は全く興味がないのに、バズりそうだ、しめしめと思って参加する無関係者だったりする。

 

本当に自分が何か言う必要があるのか。

何か書く必要があるのか。

 

そう思うと、段々と書くのが億劫になるのである。

そんなことを思った。

 

ややこしいかえみとの話をしよう

気づけば、俺は、かえみとにはまっていた。

何故と言われても、答えなどない……。

かえみと、とは月ノ美兎と樋口楓のカップリングな訳だが、今までにない力強い構造をこの百合カップリングから感じている。

それはつまり、ナマモノとキャラクターの間をたゆたう新感覚の百合、という事だ。

 

確かな実態としての感情を感じる瞬間もある。

一方で、デザインされたキャラクターの尊さを感じる事もある。

 

現代において、何かと神話は破壊されるが、プロレスも相撲も八百長だと騒がれるところでもあるが、この、vtuberの曖昧さは、むしろ風流、風情ではないか。

 

野暮なのだ、現実がどうであるとかこうであるとか。

 

信じられる熱があるかどうか、虚実のどちらでもない、という事に価値が宿る事もある。

誤爆なのか性欲なのか。

演技なのか本気なのか。

スマホの待ち受けをかえみとにしているのか。

かえみとは正義なのか。

 

 

演技に本気が宿る事もあれば、本気に演技が混じる事もある。

 

ほんと何言ってんだ、って感じで、ではでは

森友の着地点はどこなんだろう

国会を騒がせる森友学園の問題ですが、あれの着地点ってどの辺なんだろう、と思います。

 

この問題に対して、色んな想定ができる。

 

1 財務省籠池氏に騙されただけで、安倍首相も妻も関与なし

2 安倍昭恵氏は消極的に関与

3 安倍昭恵氏は積極的に関与

4 首相も関与している

 

これのどれを想定しているかによって、問題に対する温度も変わるところではあるかと思います。

自分は、2と3の間くらいかな、と思っています。口八丁の詐欺師にただ騙されるような組織ではない、というのが自分の感覚ですので、そこは値引きに乗らざるを得ない理由があったと考えます。

そこでの関与度合いがどれくらいだったのかは分からないですけど、まあ何か言われたぐらいの事はあってもおかしくないかなあ、というところです。

ただまあ、何の証拠もない話ではある。100%の物証などまずない、という話をした事がありますが、

www.yayakosiikedoomosiroi.com

こうなると状況証拠しか出てこないのは間違いないでしょう。

文書を改ざんしてしまうなら、決して証拠は出てこない。

ここで二つ目の問題である、文書改ざん、という問題も出てきますね。

公文書を改ざんするのは駄目ですけど、改ざんの当事者と責任者に罰を与えて終了、という着地なのか、どこが着地なのか、という問題がある。

 

1 財務省はけしからん、解体

この着地が難しいのは明らかで、

kasumigasekipeople.hatenablog.com

まあ現実的ではない。

 

2 関係者を降格等して終了

割とありそうだけど、本当にそれでいいのか。

 

3 首相退陣

野党とかは結構これを言うんですけど、これはまた別の問題を含んでいる。

 

財務省が文書を改ざんしたのはよくないけど、粉飾決算した法人を即座に清算はしないし、粉飾決算したから決算書の全てが嘘になる訳ではない。粉飾には当然、「該当箇所」がある。

公文書は全て改ざんされているかもしれない、全て嘘だ、という話にはならない訳です。

何をどこまで責任を問うのか、という線引きの問題がある。

 

1 籠池氏に騙された財務省が悪いだけ

2 首相の奥様はちょっと関与したかもしれんけど、物証も出ないし、そこは裁けない。やはり財務省内部の懲罰のみ

3 いや、財務省に忖度するよう指示を出しているに違いないし、積極的に改ざんし、私服を肥やしたに違いない、退陣すべき

 

みたいな感じで、事実によって方向性や温度も変わってしまう。

また究極的に、どこまで悪いのか、という感覚が、人によって違うと思われる。

もちろん、悪いこと、悪いことではあるのだが……

 

1 国有地の値段を下げさせたのは確かに悪い事だが、自分の懐に金銭を入れた訳ではなく、真に倫理的悪とまでは言えない

 

という考え方の者を見た事があります。理論としてはなくはない。

 

2 確かに悪い事件だが、国益を考えた時に、首相を退陣させることは国政を悪戯に混乱させる

 

こういう考え方もちらほらと見かける。

これは結構難しい問題で、今の状況で首相退陣となった時に、他に首相の器の人物はいない、と言っている人を見た事があります。他の人間は頼りない、と。

 

分からない。

首相が退陣したら政治が混乱する、という点だけは間違いない。

国有地を低額で譲渡した罪はどれくらいの罪なのか。誰が悪いのか。

何らかの事情で文書を改ざんした罪はどれくらいの罪なのか。誰が悪いのか。

それぞれ温度差があり、天地を揺るがす罪だと考える者もいれば、そこまでではないと考える者もいる。

 

妥当な着地はどの辺なのか。

 

自分の正直な感想を言えば、首相退陣まで行くとピンと来ないのです。

 

それが正しいのかどうか分からないし、事実も明確ではない。

 

うーん、ややこしいまま、ではでは