セクハラ違反法を作るとしたら

 セクハラ関連の話題を見ていて、実際、セクハラ関連の法律はどうなっているのだろう、と思った。

 

パッと検索すると、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」が出てくる。

 いや、こういう名前の法律なのです。正式名称です。民法でも刑法でもなく、この、雇用うんたら法、がセクハラに対応している法律の一つのようです。

 あとは、民法不法行為使用者責任や名誉棄損、刑法だと、傷害、強要、名誉棄損、侮辱、とかが該当する場合があるようですね。

 

 直接、セクハラ違反法、みたいなのは無いようです。

 

 ここで思うのが、自分がセクハラ違反法を作るとして、一般に言われる「被害者がセクハラと思ったらセクハラ」という定義で、自分はセクハラ違反法を作るだろうか? という事なのです。皆さまも、自分が作るとしたら、と一度検討して、立法者という、凄い権力者になった気分を味わうのは良いと思います。楽しいし。

 

 被害者がセクハラと思ったらセクハラ、は、「被害者が性的侮辱と認識した場合、本法の違反が成立する」みたいな内容になると思われますが、自分だったらこうは書きません。

 

 だって、さすがにこれだと、誰もがセクハラ違反法の違反者になってしまう。被害者の主観だけで良い事になってしまう。

 

 もちろん、一般的議論として、セクハラは被害者が認識したらセクハラ、でも良いとは思う。そういう定義になったのは、それなりの経緯があると思うからです。基本的には、セクハラをする人間は自分のセクハラを認めないし、立場が強かったりするし、そこで客観的なセクハラの定義論とかで揉めるなら、実際は何言ってもいいみたいになりかねない。

 

被害者が認識したら、とりあえずセクハラと認定してから、それが悪質かどうかは個別に議論する、という、法とは別の議論の作法が出来るのは仕方がないとは思う。よく考えたら、法律でもそういう流れになるような法律もあるし。いったん違反になるように見えて、一般的事例だとちゃんと免責されるようになっている、みたいな構成になってる法はあると思う。

 

 ともあれ、被害者の主観でOK、では法としては採用できない。どうしても暴論という側面があり、だからこそ、セクハラだと言われても、自分はその表現を辞める訳にはいかない、という意見が出たりする。たとえばよっぴーというWEB広告の人とかは、風呂の宣伝で、裸になって風呂に入る写真は使わざるをえない、と言っていた訳です。それがセクハラで不快だと言われても、風呂の宣伝だからそれはそうしたいと思う、と。

 

 さすがに風呂の宣伝で、もちろん局部なんかは映さない訳だけども、ある程度裸になった写真を使うのを、全面禁止しろというのは少数派だとは思うのです。実際、この発言はそれほど問題になっていない。

 

 一方で、問題になっている人もいる。

 

 このブログは、はあちゅう氏の発言に触発されて書いている。

 

 はあちゅう氏は、童貞という属性をかなり侮辱することで問題になっている。

 

 私が思ったのは、今はもう、これは「現在進行形の問題」になってしまっている、という感想です。何故ならはあちゅう氏は、自分の発言は表現であり、今後も行っていくという態度表明をしているので、それに反対する人間は彼女に反論せざるをえない。つまり、「現在」の問題になってしまっている。

 

 そこで、実際の法では、セクハラはどのように取り扱われているのだろう、とまず思った訳です。そうすると、明確なセクハラ対策法みたいなものは、雇用者の法律だけで、雇用者はセクハラが起きない環境整備をしないといけない、みたいなのはある訳だけど、これはセクハラ加害者を罰する法律とはちょっと違う訳です。

 あとは、刑法や民法で、他人に損害を与えた場合の、関連の法律が適用される事がある、という感じです。

 

 なのでここはいっちょ、セクハラ違反法みたいなのを書いてみるか、と思ったものの、これは結構難しい訳です。

 

 「他人を性的に侮辱した者は、懲役云々」

 

 とか書いちゃうと、ここでいう性的な侮辱とは何か、って話になって、まあそれは判決を出す裁判官に投げてもいいのかも知れないけど、普通は、最低限の構成要件を通達とかで示すんじゃないかなあ、と思う訳です。立法趣旨を、立法者が説明しないと裁判官も困っちゃいますからね。あと、税法とかでよく言うのは「社会通念上認められる」みたいな文言ですよね、社会通念上、性的な侮辱と認められる行為・・・ただこれは、セクハラ違反法を書く時に使うには適してなさそう。

 社会通念上だと、どうしても多数派の意見みたいになっちゃうから、20年くらい前だったら、上司が部下の尻を触るのは「社会通念上」認められていたからセクハラじゃない、とかそんな話が出てきかねない。

 

 ただ思うに、法律というのは、そんなに白黒ハッキリ書いてない。

 

 例示とかがされている場合もあるけど、大体こういう場合は該当するよ、と示しても、結局は、ここは該当してないとか該当してるとか、裁判で争わざるをえない。

 

 何故か法律に過大な信頼を寄せている人がいて、これは法律違反! とかすぐ断言する人いるけど、そんな簡単じゃないよね。岸さんを訴えるとしても、セクハラ違反法なんてないし、年数も相当たっているから、時効にならない罪状を選ばないといけないし、刑法、もしくは民法の、何に該当するのか、って話から始める必要がある。

 

 法律は、けっこう曖昧な時があるし、特にセクハラなんかは、明確に対応する法律もない。

 

 この灰色を、何とかして考えていかないといけない。

 

 だから、この灰色を何も考えずに、表現無罪、みたいな事を言われても承服しがたい気持ちがある。

 

 今回、一連の騒動があり、最初にちょっと勉強になったな、と思ったのは、「告発者を責めるな」という意見が総スカンを喰らった事です。

 自分は、「告発者を責めるな」という意見には一理あるな、と思ったので、それが袋叩きにされたのを見て、おお、自分はそんな特異な考えをしていたのか、と思う面があった。

 

 ただ、「告発者を責めるな」という意見が全面的に悪いとは余り思えない。論点は複数あるんだけども、まず、軽いセクハラと重いセクハラがあるのかないのか、という論点がある。

 WEBで不特定多数、この場合では童貞を揶揄するのと、職場の上下関係を利用して深夜に呼び出し、女友達を紹介させて、その女友達をけなし、本人の人格も否定する。が同じ重さかどうか、という点です。

 両者の重さは同じである、というのも、論理上はありうる。何故なら、同じセクハラという枠では同じであり、軽い重いは主観である、というような。

 ただ、僕はその意見には与さないし、そういう意見の人とは、議論しても平行線だと思う。重い軽いはある! いやない! とか言い合っても何も進まない。どっちが正しいとかいう話でもない。

 

  ただ、法律上でも罪の軽重は問われるし測られる訳で、社会の基盤となっている法律でさえ、物事には軽重があるとしているのだから、軽重があると考える事自体はそんなに変な考えではないと思っている。

 

 次に、仮に軽重があるとしても、軽いからと言って黙らせるのは、言論弾圧である、という意見です。これは、考えこんでしまう。一理も二理もある。しかし一方で、告発者は告発することで必ず目立つのだから、そうすれば過去の発言や行動を掘り返されて批判される事も甘受しなければならない、という事になる。この二つが対立する訳です。

 

1 我々はかつて童貞を見下す発言に傷つけられたから、この場で批判する。

 

2 告発者は清廉潔白でなければいけないのか? 告発は、過去の行動言動による批判を受けるリスクとセットにならなければいけないものなのか?

 

 結局、どっちをとるかの話で、どっちが白で、どっちが黒だとは私は思わない。今回、2番が、完全な黒であるかのような言説が溢れたけども、2が黒であるならば、1も十分黒であるように思える。特に、1を行った人には、様々な人が居て、はあちゅう氏への悪意を抱えた人が皆無と考えるのは難しい。もちろん、善意の人もいる訳で、実に理路整然とした批判の人もいたが、悪意による攻撃が含まれる1が、完全な白である、という結論を素直に首肯する事は出来ない。

 2だけが悪であり黒で、1が勝利し善が勝った、という考え方を私はしない。一貫して、灰色を考えるのがこのブログのテーマでもあるからだ。

 今回、1が勝ったのは、あまりにもはあちゅう氏の対応が、セクハラの再生産にしか見えず、素直に支持するには厳しい対応だったからだ。

 

 特に、社会的ダーウィニズムという疑似科学を、「価値中立」と言い張って、童貞は無価値であると断言した田端という人物などの意見は、到底承服しがたい。しかも、その田端という人物の発言(といっても、社会的ダーウィニズム自体のツイートではなく、自分を支援してくれている発言)を、はあちゅう氏がリツイートするに至り、このまま無条件にはあちゅう氏を支持していたら、余りにもナチスっぽい考えを支持している事になりかねない感じはあった。人類が皆童貞だったら人類は滅ぶから童貞は性淘汰されるべき存在云々とか・・・基本的人権日本国憲法は歌っていたはずなのだが・・・

 

 今でも、心情的には1に近く、告発者を批判するときは、ある程度慎重であっても良いと思っている。もちろん、告発することでいきなり聖人になる訳ではないから、批判されるべき人物ではあるかもしれない。ただ、灰色を考えるように、批判についても適性か考えるのは無駄ではないだろう。

 

 今回について言えば、結果的には無駄ではない批判になってしまっているように見える。

 もし、童貞云々の批判がなければ、かなり問題ある思想の人物に見えるはあちゅう氏が、運動の旗手のような扱いになり、セクハラに一家言ある人物として扱われ、メディアに出て・・・・どうなるだろうか? 私は、余り良い予感はしない。

 

 もちろん、そんなイフの事は分からないが、もしもイフの話をしていいなら、「過去の童貞に関する発言については、配慮が足りませんでした。多くの人を傷つけて、申し訳ありません」というような対応で最初から行っていれば、ここまでの事にはならなかったように思える。

 

 自分の童貞いじりは愛のある表現で、表現の自由がある。というのは、まったく灰色を検討した形跡がない。表現の自由は、あらゆる表現を無原則に認める、という意味ではないし、表現は常にだれかを傷つける可能性がある。しかしそれで、どうせ誰かは傷つくんだから何言ったっていいんだ、誰も傷つけない表現なんてないから、どんどん傷つけていいんだ、という居直りは思考停止である。

 そうではなくて、誰かがそれで傷ついたなら、立ち止まって考える、被害者に寄り添う優しさがないならば、それは……やはり支持する事が難しい相手になってしまう、と私は思った。