ラブライブ2期 最終話 感想

Aqoursは、Aqoursの物語を生きた。

普通に感動してしまったぜ………。

ラブライブ1期や、μ'sのコピーとしてのAqours、みたいな側面がサンシャイン1期ではつきまとうところがあった。9人という人数、作劇、設定、その他もろもろ……。

だが2期を見ていて、AqoursAqoursの物語を生きて、彼女達なりの結論が出て、μ'sが上手くできなかったこともやっている、と思った。

μ'sでの一般生徒の立ち位置というのが、非常に承服し難いというか、色々と釈然としない事が多かったんだけど、Aqoursではそれがかなり大きくフォローされたお蔭で、私達が生きる事そのものの輝き、というテーマに説得力を持たせる事が出来ていた。

みんなで歌うと言いつつ、歌ってるのμ'sじゃん現象、みたいなのがあったけど、Aqoursはちゃんと全校生徒で歌う場面があったりして、そういう細かなフォローやヴァージョンアップをしてくれていた。

 

彼女達は輝きを求めて駆け抜けた。

 

駆け抜けているその事自体が、輝きだった。

 

誰の内にも、その輝きがある。

 

こうして言葉にすると陳腐だが、彼女達は実際に苦境に陥り、3年生は一度は挫折し、もがき、目的や目標が失われ、しかし、しかしそれでも駆け抜けた。

何故なのか、と言われても明確な答えがある訳ではない。

輝きを求めたのだ。

ただそれだけなのだ。

1期の迷走みたいに見えた事が、まるで伏線のように積み重ねられ、いや、実際に迷走だったからこそ、振り切るために駆け抜けるしかなかったのかも知れない。

ラブライブというのは、恐ろしく勢い任せの陽性の作劇で、μ'sが完全にそれを体現してたんだけど、サンシャインはかなり繊細な方向性に振っていた気がする。

何より、リーダーの千歌が実態としては明らかに繊細だった。

繊細さを守ろうと脳天気の鎧を纏う、という印象があった。

誰でも無い普通さから、夢中で何かをやりたくて、何をやっていいか分からない、という凡庸さから出発して、それはもしかしたら最後まで変わらなかったのかも知れない。しかし、その凡庸な筈の千歌が、ラブライブを優勝しえた、という事が大事なんだと思う。

たまたま、ラブライブ出場であったけど、千歌が目指すものが別であっても、また別の熱い青春があったのかもしれない。

誰でも無い、消えて行った千の歌があり、しかしそこにある輝きを疑わない。結果として優勝だったけども、優勝しなかった千の歌の願いがあり、それもまた輝きであるから、千歌という名前なのかも、と思った。

セイントスノーが、優勝しなかったけども、輝きのある人として描かれている。そういうフォローがちゃんとしているのが良いところだと思う。

Aqoursでさえ、優勝しないかも、と思ったし、逆に言えば、Aqoursが優勝しなくても話が成立するということは、優勝という結果が大事な訳ではない、という事でもある。凡庸な千歌が優勝しえた、という事は大事だけど、優勝しなかったとしても輝きは消えない、という事だ。

ちゃんとそういう作劇をしてきた。

Aqoursが優勝しないなら、この話はクソ、とか思うなら、彼女達の駆け抜ける姿の、何を見てきたのか、と思う。

あと愛校精神が凄くて、案外、浦の星女学園という、学園が閉じられるまでの物語でもあったな、と思った。学校も主役、みたいな。

 

まあそんな中、もうゆで理論みたいな、ラブライブ物理みたいなのがバシバシ出てくるんだけど、そういう緩いところも作風だなあ、と受け入れている自分に気づきもした。

 

異常な程に飛ぶ紙飛行機とか、そもそも紙飛行機を投げ出すのが超唐突とか、何で講堂にみんないて、イタリアに行った奴までいるんだよ、とか、そういうのを無視する演出が、ラブライブの方向性になってるなあ、とも思った。

割りと大胆に現実を無視するからな。

急にPVになる辺りで、そこは割り切ってるなあ、と思う。

 

紙飛行機は風という、外部の力がないと飛ばない、というような隠喩ありなんだろうけど、そういう理論に任せて強引な演出をするよね。

 

自分はライブに行ったりしてないので、こんな感じですけど、本気で応援してる人達はライブにも行ってるだろうし、そこも含めれば、自分も駆け抜けていた、と思えるだろうから、より意義深いだろうとは思う。

 

割と普遍的なところに着地した物語だったし、もしかしたら劇場版を見に行くかもしれない。

 

そんな感じで、では。

 

 

以前の記事。

ununnu.hatenablog.com