それが声優 最終巻

それが声優の最終巻を読んでいて、なんだか悲しくなってきた。内容はどうという事ないのだが、原作者であるあさのますみのあとがきを読んで、本編まで悲しく見えてきたのでした。

 

そのあとがきの内容は、プロデューサーに

「この人が声が出なくなったって、事務所に電話一本かければ、代わりのナレーターはいくらでもいるんだから」

と言われたエピソードなのですが、このあとがきはこう続きます。

「何も言わない私を見て怒ったと思ったのか、彼は「ははは、冗談ですよ」と明るく笑い声をあげました。そしてそのまま収録は始まりました。

 ちがうんです。怒ったわけじゃないんです。私が何も言えなかったのはあなたのその言葉が本当のことだから、そしてわざわざ言われるまでもなくデビューしてから17年間ずっと、ヒリヒリした気持ちで毎日それを実感しているからなのです」

 

というエピソードなのですが、その言葉が本当だから何なのか、と思う訳です。

 つまりこれは普通に考えて、悲しんでるか怒ってるかしてる筈なのに、ちがうんです、といってそれを抑圧しなければいけないこの社会が悲しく思えるのです。

 こんなん別に声優でなくても、誰でも、代わりはいるのは事実に過ぎない。客先に行ったプログラマが風邪気味で、「お前がぶっ倒れても、会社に電話かけたら代わりのプログラマはいる」と言っても事実ではあるだろうけれど、事実だから何なのか?

 こんなこと言ってるプロデューサーだって、死んだら誰かが代わりをやるだろう。

 こんな言葉を、そうだ、それは事実だから納得している、と自分を騙さないといけないのだろうか? なんだかそういう社会自体が悲しく思えるのだ。

 また、同じ巻の別のコラムではこう書いている。

「声優というのは、個人事業主。労災も傷病手当金もありません。休んだらその分収入は減るし、復帰後の立ち位置が保証されてるわけでもない。そしてもっと言ってしまえば私たちは「商品」なので、マネージャーや身近なスタッフさんに不調を訴えるのも、勇気がいることなのです。商品として、欠陥があると思われたくない」

 

 かつて、自分は商品であるというのは、逆説だったのではないかと思う。自身の仕事への覚悟や自負から、商品であるという言葉が成り立つのではないのか。

 誰でもいつでも代わりが出来て、それでなお自分を商品と言うなら、それは逆説ではなく、本当に自分自身を商品と思わないといけないという事を意味する。誰も代わりのできない特別な自分であるという自負から、俺は俺の商品としての価値を高めるし、いつだってそれを意識している、というならそれは自負であり、誇りでもあるだろう。

 しかし、代替え可能なものに過ぎない自分は商品ですと言ってしまったら、それは単に事実を言っている事になる。

 自分はそれに一言いいたい。

 

 人間は、商品ではない。

 

 一つの人格がそこにはあるのだ。

 だが、現代社会は、仕事場では人格を持つなと言う。もしかしたら日本という国もそれに影響があるのかもしれんが、俺は他の国の事は知らない。

 お前は商品だ、代わりは幾らでもいるという事実を受け入れ、その罵倒を内面化し、その通りだと思えと強いてくる側面が社会にはある。別に声優業界に限らないどころか、他の業界の方がそういう風潮が強い可能性さえある。

 

 だが、我々は人間だ。

 一個の人格、一個の尊厳があるのだ。

 

 俺がそんな風に思うのは、今の職場を5か月くらいしたら辞めようと思っているからかも知れない。このブログを始めた理由の一つには、無職になった時に、なんでもいいからマネタイズしたいという下衆な理由もある。この日記は閲覧者は現時点で0なので、ほとんど一人言のようなものだが。やれることは何でもやってみよう、リクナビに登録し、ランサーズを眺めもしよう、という状況だから、余計に悲しくなったのかも知れない。

 

 あさのますみさんのこれは、まるでmeetoのようにも見えるじゃないか。ただし、本人が相手の主張を認め、内面化しているmeetoだ。

 

 そしてそういう気持ちで本編を見ると、実に変な話に見える。

 イヤホンズという主役3人の物語で、最後を締めていないのだ。

 前の巻に突然出てきた売れっ子声優が引退する話が、最後の締めになってしまっている。これもかなり唐突に感じる。

 そういえば、遠藤ゆりかという人が引退したな、とも思った。

 前の巻の描写では、そのキャラに、引退したいなどという素振りは全くなかった。

 通常の流れであれば、病気休養後復帰する筈で、そういう風にした声優はたくさんいるだろう。 

 プロ意識が高かった筈の売れっ子声優は、体調不良になり、いきなり引退に直行する。まあそれを良いとしても、イヤホンズ3人の何か重要なエピソードで物語を締めるのが普通ではないのか。樹ヒナタと双葉の物語に、唐突に話が変わっている。

 そういう風に見ると、これが本当に言いたかったことなのか?

 自分達の代わりなんていくらでもいるけど、一生できるかもわからないけど、精一杯頑張っています、ということが?

 

 主張としては分からなくもないが、自分はなんだか悲しい気持ちになった。