100%の物証

推理小説を読んでいると、探偵が言うところの「証拠」で、本当に公判が維持できるのだろうか・・・? と疑問に思う事がある。

 

犯人はシャンデリアの紐をつけかえる事でトリックを完遂させたんだ! 証拠に、天井近いシャンデリアの紐に、貴方の指紋がついていた!

 

みたいなのがあるけど、「大掃除の時に触りましたよ! そういえば!」とか何とか、「確率が低くても、物理的に不可能ではない言い訳」とか、「偶然」とかで説明できるなら、その言い訳は成立する筈ではないか。

 

だって、「疑わしきは罰せず」の筈でしょ?

 

そう考えると、100%の物証、というのは基本的に難しいのではないか。

 

家にも行く友達と関係がこじれて、そいつの家にあった包丁で友達を刺し殺し、持ち手の指紋をふき取り、コートを着込んで家に帰って、来ていた服は全て処分した。という状況はありえそうですが、ここから100%の物証が出る事もあるだろうけど、出ない可能性もけっこうありそう。

 

家に毛髪等があっても、家に遊びに行く仲であれば不自然ではないですし、アリバイなんて、一人暮らしならある方が珍しく、間違いなく犯人を同定する証拠、って結構難しい気がする。

 

警察の科学捜査は凄いから、物証だけで十分立証できる、という意見に私は懐疑的なのです。

 

なんでこんな話を書いているかというと、痴漢冤罪事件の話を聞くたびに、男女やフェミニズム云々よりも、私は警察の取る態度である「貴方が本当に痴漢やったかどうかは知らないが、自白すれば家に返してやる」というスタンスは、根本的に間違っているのではないか、と思ったからです。

 

何故彼らは、痴漢冤罪に限らず、あらゆる事件で被疑者を拘束し、長く厳しい尋問を行い「ほほー、これは奥様にも話を伺わないといけませんな。あなたがやったんじゃないんですか?」みたいな話法を使うのか?(色々あって、知り合いがそういう事を言われたらしい、その人物は無実でした)

 

実際にはやってない人も、やりましたって言っちゃうだろ、そのやり方は。実際に痴漢冤罪ではそうなってしまった訳だし。

 

警察は、被疑者が「実際に罪を犯したかどうか」はどうでもいいと思っているようなやり方をしている。(現場の警官が実際にはそう思っていないのは分かるが、結果としてそういうやり方になっている)

 

機械の遠隔操作事件で、真犯人が見つかるまでに、無実の人が何人か「自白」する事件があったと聞いている訳ですが、一体何故、無実の人が自白してしまうのか?

 

それは、会社員を会社に行かせず拘束するだけで、とにかく出勤したいから自白してしまうからかも知れない。

でも、そのやり方はまずいのではないのか。

 

痴漢に対して、フェミニズムの話もいいけど、こういう冤罪の生まれ方は女の人が悪いというより、警察が悪い筈ではないのか。

痴漢冤罪を生むのは女性、みたいな論調の人がいるけど、悪いのは痴漢する男とか云々もまあ、議論していただいていいとは思うものの、根本的に警察のスタンスがおかしい筈ではないのか。

 

法律がそうなってるなら法律が悪いけど、冤罪を生み出してしまう手続きは、法には書いてないから、運用する警察側の問題ではないかと思うんだけど。

 

そこで冒頭の、100%の物証はないのではないか、という話に戻るのですが、これは、何故警察がここまで自白偏重になったか、という推測なのです。

 

「状況証拠」では明らかに犯人であり、見るからにあやしい奴がいる、しかし物証は足りない。人が殺されている、本当にこいつを野放しにしていいのか? 何とかしてこいつを有罪にする方法はないのか? 刑法を読みこむ、すると、自白の証拠性は凄く重いものになっている、調書をとってしまえば、まず翻せない。そうだ!自白だ!状況証拠と自白をセットにすれば、この邪悪な殺人者を野放しにしなくて済む!社会の秩序が守れる! 

 

というのが、そもそもの始まりではないのか。

 

日本の警察の検挙率が高いと言われておりますが、思うに、本来の想定される手続きは、

 

やや弱い、100%ではない証拠複数と、いくつかの状況証拠→どうしても100%にはなりきらないが、偶然と言うには余りにもおかしい→あとは裁判官に託す→場合によっては「疑わしきは罰せず」で無罪

 

という手続きではないのか。だって、100%の証拠だけしかないなら、裁判は量刑だけ考えたらいい事になる。

 

だが本来そうではないのでは?

 

現状、ここで「自白を取る」という手続きを得るだけで、飛躍的に公判を維持しやすくなる。

 

狡猾に証拠を隠す邪悪な犯罪者達から「自白を取る技術」を磨いてきた警察は、ついに「別に犯罪してない相手からも自白を取る技術」を完成させてしまっていて、それが痴漢冤罪や、やっていないのに機械を遠隔操作しました、と自白させられてしまう無実の人を生み出してしまった。

 

しかも「物証による証拠固め」がある程度適当でも、自白さえとれればいい、となって、手続きが簡単になる。

 結局は犯罪捜査にも事務手続き的な側面があり、一つの事件の真実なんかどうでもよくて、この事件という「事務」を「自白を取る」ことで「解決」したら、さっさと次の仕事に取り掛かれる訳で、非常に効率的な事務運営、みたいな側面まであって、いちいち朝の通勤ラッシュの痴漢なんかに時間を割けないぜ、もっと重大な事件はあるから「さっさと自白してもらって事件を片付けよう」みたいな事になっているのでは、という妄想はある。

 

だから痴漢冤罪は、フェミニズム的論争もいいんだけど、私にとっては「冤罪」とつく以上は、警察という社会システムの病理の現れに思える。

 

自白に証拠が偏るのは、結局は100%白黒つけるのが難しくて、物証でも、最後まで灰色が残るという事だと思う。本人がやったと言ったからやっている、はシンプルな理論だが、現実の灰色から逃げてしまっている。

 

これは難しい問題を含んでおり、じゃあ、この「自白偏重」をやめて、物証による灰色の捜査に戻すと、どんなに疑わしくても「疑わしきは罰せず」なのだから、狡猾な犯罪者は逃げ切れる可能性が上がるのではないか。

 

しかし、結局はその灰色を考え抜いて生きていく方が、法の原則に近いのではないか。

 

話がでかすぎて、どうも拾い切れない論点がたくさんあるけど、このように思う事がある。