どこまでが自己責任か。

自分は時々、益体もない、宙に浮いた事を考える。

たとえば、何でも自由に選べる世界になったとして、そこであえて醜い容姿を選んだ人間は、その醜さを批判されて当然だろうか、とかそういう思考実験的な事だ。

やはりそれは批判されるべきではなく、「自分で選んだ」という一点だけで、「理不尽」である容姿の批判を甘んじて受けなければならない理由がない。

嫌なら綺麗な容姿にすればいい、というのは、その根本にある「自分が醜いと感じたら罵っていい」という、肯定しにくい価値観を肯定してしまう事になる。

 

自分で選んだからといって、何でも負債を負わせられる訳ではない。

 

ここから連想して、ネットゲームで、ルガディンという種族がいるのだが、まあ、ムキムキマッチョみたいな種族で、仮にこのルガディンを選ぶ人間などに、謂れのない誹謗中傷があったとして、ルガディンを自ら選んだ時点で、言われない誹謗中傷の受け入れなければならないのか。

嫌なら種族を変えれば良い、で済むのか、と考えた。

それはやはり、ないな、と自分は思う。

ルガディンを選ぶ事と、ルガディンに行われる誹謗中傷を受け入れる事は違う。

また、その中傷を自己責任で受け入れろと迫る事は、誹謗中傷を肯定する社会をつくる事に等しい。

そんな風に思うのである。

 

これは特に現実の事象と関係ない、空想として考えていたが、まあまあ現実とも接点がありそうに思う。

「嫌なら辞めれば良い」みたいな意見は、結構見かけるものだからだ。

世の中はそんなに単純ではないだろう。

また、自己責任の範囲は、無限ではない。

責任の範囲は、常に社会通年上、妥当な範囲だろう。

ではでは