少し前に、相模原の事件があった。
オウムが事件を起こした時、宗教学者島田裕巳は彼らの教義に一定の評価を与えて社会から干されましたが、「宗教学者」という立場から見て、彼らの発言を考えざるをえない立場だったのだと思われます。また、オウムの行動はともかく、教義とかはよくある「輪廻転生」だのに過ぎません。
どこかで見たジャンクの寄せ集め、という評価もあったオウムの教義ですが、少なくても、とにかく誰かを皆殺しにしろ、みたいな教義ではもちろんなく。もともと仏教で唱えていたような、輪廻転生とか、それ自体は別にどうという事もない教義に過ぎませんでした。
宮崎勉や、黒子のバスケの脅迫、さかきばらせいと、秋葉原通り魔、小学校襲撃犯とか、犯罪者は色々言う訳ですが、それをまともに受け止めるかどうかは、受け止める側の問題、という側面はあり、「事件自体」は重大に受け止めても、「思想」については、まともに受け取る必要がない事も多いのでは、と思います。
何故ならそれらの事件を起こした人間の精神状態は、やはり偏っており、偏った人間の偏った意見をまともに「受け止めてしまう」としたら、それは受け止めてしまう側の何か病が反映されている可能性があり、毎回何か議論が起きるけど、その議論の大半は何も生み出さずに終わる側面がある。
ましてや、大麻をやってて措置入院をして、自分は宇宙人かも知れないと言っている人間の意見をまともに「思想」として取り扱う必要は。本来はない筈です。ましてやその中身は、障碍者は邪魔だから皆殺しにしろ、のような極めて直接的な殺意です。「誰かを殺せ」と叫ぶ事に「一理ある」「思想だ」と言い出す
それはその社会の方が病んでいるのであって、一顧だにする価値のない意見の筈なのです。
それよりは、介護施設の環境をよくしよう、とか、そういう議論の方がいい筈なのに、いつも「思想」とかいうものに、議論リソースを割いてしまう。
何故こんな意見を、大麻使用者の妄言として片づける事が出来ない社会になってしまったのか。そのことの方が気になる訳です。
また、明らかにやまもといちろうは、彼の意見を思想として取り上げてしまっているのですが、やまもといちろう的意見は、犯人の「ネタ元」でしょう。
大麻をやったり、ラリったりする人が何らかの「ネタ元」に触れてそれっぽくかぶれてしまう、というのは、ジャンクの集積と言われたオウムもそうだし、宮崎勤もそうだろうし、大抵のものはそうでしょう。相模原の犯人の「思想」の「ネタ元」はネットの、社会のために弱者殺せ的意見に見えます。
大塚英志は宮崎勤の部屋に自分が編集していた漫画ぶりっこを見かけて、彼と向き合うための言葉を探していく事になりますし、宗教学者島田裕巳だってそうでしょう。しかし、そういう過去の知識人たちは、犯罪者のネタ元にされた事に関して。自分達の思想に問題があったのではないか、と「内省」する訳です
振り返ってテレビにも出る知識人やまもといちろうが、自分がバラ撒いたような思想が、殺人者のネタ元になって返ってきた時に、俺も考えているようなこういう思想を、お前らもっと受け止めろ、お前らも考えろ、という宣伝増幅に使ってしまう。犯罪者と自分が同系統の思想である事を「内省」しない。
こういう「知識人」や「思想」の在り方に対して、なんか、僕は嫌だと思うところで、ネットで語られる思想はもちろん、東浩紀含め、この、振り返らなさ、内省の無さ、弱者をとにかく攻撃するあり方、それら全てが、嫌になるのです。