自分の世代、もしくは自分自身の存在とは違う文化がある

そもそも、自分用ではない文化、みたいなものがあると思う。

携帯小説が凄く批判されたり、まあ、未だに批判してる人もいるだろうし、なろう小説が批判されたりとかあると思うんだけども、そもそも、自分用ではない、という感じで良いんじゃないか、と思う事がある。

自分は面白いと思わなかった、みたいな感想で終わって良いもの、みたいな。

カゲロウデイズなどのボカロ系の小説が出た時、これは自分より若い人のための文化だな、と思った事がある。

かつて自分自身が若い人だった時、西尾維新とかに凄まじい反発心を持った事を覚えている。言うなら、上遠野浩平とかにもかなりの反発心を持った。

しかし自分がどんなに色々と認めがたくても、西尾や上遠野は何らかの影響を与えていったと思うし、自分が反発を抱き、何かの批判や意見を言うのも良いし、一方で熱心な彼らのファンがいる事も良い事だと今なら思う。

なろう小説の読者は実際には全然若くないみたいなので、世代の問題ではないのだが、「自分とは違う文化がある」時に、しかもそれが若い人用の文化であれば、なんだろう、書かれている事には何等かの誤謬があるのかも知れないが、その「誤謬自体が若い精神に寄り添っている」事があると思う。

若い人間が持つ、世界に対する不信感、孤独感、全能感、過剰な自意識、それらに寄り添うならば、「誤謬だらけの物語になる」のは当然なのではないか。

それを誤謬だからと言って指摘したり批判することに、躊躇いを覚えるようになった。

間違いまくる事でしか寄り添えない物語があるのではないか。

若い頃の西尾の作品とかマジで何なんだこれと思ったが、今思えば、まず本人が若く、だからこそ寄り添えるファン層があって、ここまで来た感じはある。若い人間が、若さ故の誤謬を本気でファンにぶつけて、ファンがそれに共感するというコミュニティに対して、その誤謬を批判しても、そもそも文化が違う、という感じがする。

自分とは違う文化だ、という、ある種の割り切り。

それはある程度、直接その世代の人たちに任せて、自分が何か言う必要はないのではないか、と思ったりする。

文化という話でいえば、歳をとると、ブームが、たとえ小さくても、文化を形成するのを感じる事がある。

たとえば、ボカロは衰退した、みたいな話があるけど、結構今のアニメOPとかに、ボカロ出身者がいたり、ボカロ文化に影響を受けていたりする曲があると思う。

形を変えて定着して、ブームは過ぎても、小さな文化となって生き残り、また大きく復活することもあると思う。

HIPHOP、もっと言えば、ラップという文化を外から見ていて、最近思ったのですが、ブームが過ぎても、継続していれば大きく復活する事があり、そして復活した時は、「生き残ってる文化圏の歴史の厚み」が生きてくる事がある。

フリースタイルダンジョンのお蔭で注目を集めたラップ文化だけど、凄い日陰を長く歩いていた感じがある。

一時期ラップブームが一瞬あって、沈静化して、しかし「日本語ラップ」の文化圏はあって、そこで生きる熱い人々がいて、「継続」されていた。

それがブームで「発見」されて、そこの歴史の厚みや、そこにいる「有名人」達の、文化圏独特の思考みたいなのが非常に面白く感じる。

そういう時に、日本語ラップなんて外国の物まね、とか超うすっぺらい批判をしても、本人の浅薄さが露わになるだけに思う。(世界中の人間が、自国の言葉でラップしている、フランス語で、ドイツ語で。日本語でやらないのはむしろ不自然。また、ロックだってもともとは外国の文化で、日本人は演歌だけ歌えばよいのか?となる)

「文化圏が継続している」というのは大事で、継続する事で批判を超えれる事もある。

こういう事はよくあって、「格闘ゲーム冬の時代」はあったけど、プレイヤーはいた。ウメハラでさえ格ゲーを辞める状態だったけど、独自の文化圏に集う面白い人達は居た。

 スト4で再度格闘ゲーム格闘ゲーム勢が注目されて、いまや「Eスポーツ」となっている。

ブームが過ぎても、そこに残り続けていた人達だけあって、ラッパーも格ゲー勢も、「人が面白い」ところがある。

「ミステリー冬の時代」(存在がよく議論されるけども)があって、新本格で大きく注目を浴びて、西尾含む色んな作家を輩出した。

たとえブームが過ぎても、「文化圏が継続していれば復活することがある」

今が本当にボカロが衰退してるかどうかは知らないが、それでもボカロで曲を作る人と、その曲を愛する人はいるだろう。

そうすると、10年後、20年後に、ひょっこりブレイクスルーが起きた時に、その生きている文化圏が利いてきたりする。

たとえば、ボカロはまだまだ機械音声感があるんだけども、劇的に簡単に、劇的に人間っぽく歌わせる技術が出来たりすると、また復活するかもしれない。

その時に、「10年ボカロを続けてました、日陰になっても、売れる売れないも関係なく」という人はもうそれだけで面白いし、「凄み」がありそうだとは思います。

この、文化圏の形成、というのは結構大事だなあ、と思っていて、なろうや異世界も、新本格のようなある種の文化圏という気はします。ただ、「小説」というものの文化圏はちょっと、とっちらかってしまっているように感じる事もあります。広すぎるのかも知れない。

ニンジャスレイヤーのアニメが面白く感じれなかったり、

そう、ポプテピピックのアニメを面白く感じれなかったりしても、

そこにはまあ、何か言わなくてもいいかな、と思いました。では。