昔、野尻抱介という人が小説のあとがきで、自分はあとがきには宣伝と謝辞しか書かない、と宣言していて戸惑った事がある。
年若い私は、「何でこんな事を言うんだろう?」と単純に分からなかった。
当時は、なんだこれ? と思って言語化できなかったが、今ならその違和感が分かる。
本当に謝辞と宣伝しか書かないなら、宣伝と謝辞だけ書けば良い。
「自分は宣伝か謝辞しか書かない」という宣言自体は、宣伝でも謝辞でもない。
つまりそのあとがきは、ほぼ一行目から矛盾していた。
プロフェッショナルとして、余計な事は言わずに、宣伝と謝辞しか書かないというスタンスは分かるが、それをわざわざ宣言するのは自意識の発露でしかない。
小説家が抑えきれない自意識を持っている事は全く悪い事ではないけれど、その自意識の発露の仕方が、俺は自意識を発露しない、という形であるのは面倒臭そうな人だな、と今なら思う。
この人は割とこういう「主張」をしたがる人で、実はこの、宣伝と謝辞しかしない、というのは自戒だったのかも知れない。ラノベ作家と舌戦になったのを見た事があり、白黒つくような話ではないが、野尻氏の意見の総論は分かるけど、最終的には賛成しにくい意見だったと思う。
根本的に、ラノベや異世界転生であるとか、野尻氏は大嫌いなんだろうな、というのは分かるし、嫌いになることにもそれなりに理由はあるだろうけど、主観は主観であろうとも思う。
結局、宣伝と謝辞しかしないプロフェッショナルなんかにはなれない。
ただ、私は別に野尻氏をどうこう言いたい訳ではない。
他にも、言ったけど守れない理念みたいなのは、実はよく見かける。
バキの板垣恵介氏が、「漫画なんか駄菓子やジェットコースターでいい、ただ美味かったり楽しかったりして、後には何も残らなくていい」みたいな事を言っていて、これは一つの意見として賛同する人も多いだろう。
私のように社会を構成する法律の在り方に若干の面白みを感じる人間もいるので、ややこしい話も面白いとは思うが、そうではない意見も十分に分かる。
ただ、普通に考えれば、読者に楽しさだけを提供したいと思ってバキを書いているという事に、これはなる筈なのだが……バキ読者の皆様はどう思いますか?
板垣先生はどう考えても読者の楽しさを最優先にはしていない、と私は思いますけど、これも主観ではある。
死刑囚編とか、どうにもこうにも、やっぱり武器は弱くなくちゃ駄目! みたいな、板垣先生の「筋肉哲学」みたいなものの犠牲になってる気がするけど……。
自分の実感みたいなものを、板垣先生はどうしても裏切れなくて、物語の王道とか、読者の喜びとか、勇次郎が最強過ぎるのはさすがに物語を歪めているとか、そういうのを無視している気がする。
だからこれも、やっぱりちゃんと守れていないように感じる。
今は亡き伊藤計画が、映画感想を書いていて、一冊の本になってたりしてたけど、これは映画をおすすめするための感想みたいに言ってたけど、どうみてもけなしているようにしか見えない感想も山ほどあったし、どう考えてもそれは守られていなかったように思う。
と学会とか名乗って、トンデモを笑おう、という趣旨の筈だった本で、石原都知事の三国人発言は正しいだの、大江健三郎の書くこの小説はとんでもsfだ、だの、中の人々の怨念でしかないものが乗っていてげんなりした記憶がある。
小説なんて、言うなれば全て個人の妄想でトンデモでしょうし、政治的立ち位置みたいな話も、全然笑えないでしょ。
っていうか、笑う気すらなくて、「科学の盾」を構えて批判したいだけでしょ、としか思えなかった。
科学的事実を無視した妄想を現実と思い込む、その想念を笑うみたいな理念だった筈なのに、いつの間にかそうなっていたし、やはり、語られる理念というのは守られにくいと思うのです。
大上段に理念を言ってしまうと、まあ守れない。
かっこいい理念とか言いたくなって、言ってもいいし、まあ究極守れなくてもいい。
それを目指すというのが、輝きなのだから。
理念は守れなかったら消えてなくなる訳ではなく、基本的人権が守られていないときに、どうせこんなもん守れねーよ、とか言ったら近代社会もお仕舞いでしかない。
守れるように頑張っていこう、今回は守れなかったものの、理想はここだよね、と何度でも確認するために理念はあるのだから。
理念がなければ、どこを目指すのかさえ見えなくなってしまう。
さてそんな訳で、はてなブログに、今週のお題「2018年の抱負」というものがございました。
いかなる理念を掲げても、全く守れる気がしませんが。
抱負は、職を辞する・・・
あと、アドセンスを申請してみた。分からぬ、これが、少しでもお金の足しになるのか、そもそも、審査を通るのか、全然わからん・・・
生きるのはいつも世知辛い。
世知辛いのじゃー(ヴァーチャルのじゃろり狐娘youtuber)
新年あけましておめでとうございます。