唐突だが、ラブライブサンシャインの話をさせて頂く。
サンシャインの1期は、余り高く評価していない。ラブライブ無印に関しては、1期のみ高く評価している、そんな人間である、自分は。
そんな自分から見て、ラブライブサンシャインの2期は……
なんか、いい感じだ。
そう思う。
サンシャインは、なんか全体的に不穏、と評価した人がいて、言い得て妙だ、と思った。
何故かは分からないが、ラブライブサンシャインの主人公アイドルグループ、アクアが、神田明神でアクアの優勝を祈願する母校の人たちの絵馬を見つける、というシーンでさえ、ひょっとして、アクアは優勝できないのでは? と思ってしまう。
アクアというアイドルグループは、二期になってから、どうにも上手くいかない困難を、いいんだか悪いんだかわかんない、ギリギリで乗り越える事が多い、ような感触を受けてしまう。実際に多いかと言われて、数を数えると微妙だと思うんだけど、なんかこれ、バッドエンドというか、そういうのもあるんじゃ、と思わせてしまう。
そう、優勝できませんでしたエンドでも、なりたつ作劇になっている。
そういう幅を持たせているのが、不穏と感じるのかも知れない。
こんな言葉を使うと、変な感じになるけど、妙な「文学性」みたいなものが漂う事があって、それが不穏な感じなんだと思われる。
文学というジャンルは、バッドエンドでさえない、アンチ・クライマクスというか、特に何も起こりませんでした、みたいな話でさえ、それなりのエンディングに出来る技術を磨いてきたジャンルで、そういう蓄積がある。娯楽作品だとあんまり出て来ないような、特殊な作劇技術を持っている。まあ、そういう技術を娯楽作品も取りこんで、というような交流が創作物というものだから、文学に限定する必要はないんだけども。
一期の時は批判的に見ていた、主人公たちが何故これをやっているのか分からない、何考えているか分からない、みたいな部分が、書き割り的ではない、人格の深みに見えてしまうように、私はなってきている。
唐突にスクールアイドルやりたいだの輝きたいだの廃校を救いたいだの言われても、なんかいまいち伝わらない、というのが1期を見ていた時に思った事だった。無印ラブライブの、スクールアイドルで学校を救う、というのが本気だということは、1話ですぐに分かる。言うなれば、圧倒的な主人公の能天気さで、こいつは本気だと説得していた。
一方、サンシャインは、μ'sに憧れてと言ったかと思えば、μ'sの読み方も知らず、普通なのが嫌だと言い出したかと思えば、廃校を救うと言い出したり、どうにも焦点がぼけているような印象が、1期ではあった。
今なら、それはある種のリアリティに見えなくもない。二期分積み重ねた時間の力が大きい気がするけど。
サンシャインの1期の後半で、自分達の指示者が0で、「悔しい」と主人公が叫ぶ場面がある、一期で唯一、「おっ」と思ったシーンだ。
「楽しく活動すれば良い」「誰でもできるのがよいところ」みたいな意見が主流としてあるなか(だからこそ、萌え4コマが支持される面がある。平沢唯がライブをして客がガラガラで、悔しい、と叫ぶことは決してない)、アクアのリーダー、高海千歌が「悔しい」と叫んだ時に、これは凄い課題だけど、ちゃんと解決するのか? と思った記憶がある。
日常系萌え4コマ的な「楽しければそれでよい」と決別してしまう発言だが、それをちゃんとやりきるには、1期はあと3話しかなくて、実際、それをちゃんとはやりきらなかった。
何者でもない自分達が、普通で、何か変わりたくて、頑張ったけど支持者0で、悔しいと叫ぶ。これはかなり普遍的な感情であるように思える。これがたとえば、何もない自分を変えようとしてユーチューバーを始める、とかだったらかなりのリアリティだし、大江健三郎「われらの時代」みたいな感じにも行けるテーマだし、ちょっと文学的だな、と思ったのを覚えている。
こういう流れを受けての2期で、アクアがどんどん変わっていく、支持者が増えていく、ラブライブ決勝に近づいて行く、そういう太い流れが気持ちいい。
その一方で、μ'sと明確に違って、アクアはいつ負けてもおかしくない不穏さがある。
ラブライブ無印のアイドルグループ、μ'sは、無敵過ぎる印象があった。2期を境に、どちらかというと萌え4コマ的な日常に近づき、あらゆる苦難を吹き飛ばしてしまうところがあった。
アクアはいつもどこか不安定だ。
アクアのライバル、と言っていいか知らないが、ホワイトスノーは、地区大会で失敗して予選落ちしてしまう。そして、予選落ちしてしまった悲しみや苦しみを、2話に渡って描いて解決までしてしまうので、凄い丁寧だ、と思ってしまう。敗者の悲しみ、みたいなものがある。
さらには、アクアの母校は廃校してしまう。廃校を救うのが目的だったのに!?
そういう、なんか上手くいかない悲しみ、みたいなものも丁寧にやってきたせいで、優勝できなくても、得るものがあった。輝きはそこにあった、みたいなエンドにできなくもない空気が醸成されている。
しかし自然に見ている視聴者は当然アクアに優勝してほしいので、そこでハラハラしてしまう。不穏を感じてしまう。
なんかこう、いぶし銀な作劇だなあ、と思う。
自分達は何者かになろうとした、
しかし、なれなかった。
しかし、しかしそれでも。
みたいな終わり方は文学ならある。実際はそうはならないと思うんだけど、そうなってもおかしくない「幅」が、サンシャインに文学性みたいな空気を与えている気がする。
そんなラブライブサンシャインの最終話がもうすぐだ。
果たしてアクアは優勝できるのか!? できないのか!?
なんか番組宣伝みたいになったなあ、と思いつつ、では。