歴史学と検証

昔、以下のような事を主張したことがある。


歴史学では、複数資料の突き合わせで事実を決定しているようだ。

しかしときどき、「A級資料に、寒い日だった、と書いてあるが、これは秋の事なのに頭の固い歴史学者は冬だと決めつけている。南国出身の記載者なら、秋もありうる!」というような珍解釈を見る事がある。

言うまでもなく、歴史学者は「寒い日だった」という一文から冬だと断定した訳でなく、公文書、同僚の日記、各種証言、新聞、現地での業務日報等、複数資料から日付を断定しており、「本人勤務の会社の転勤辞令と、業務日報から、日記記載の出来事は12月16日と断定できる」みたいな感じになっている。

だからそういう珍説を唱える人は学会で発表して、歴史学の中で事実を認めてもらう事はせず、一般書で妄想を書きなぐる訳で、そして、「歴史は全て偽史だ」とか「学会は政治でものを決めている」とか言い出すようになっている。

歴史学が複数資料を読み込んでいる、なんて普通に考えたらそりゃそうだろう、という話で、日記一冊で歴史を決めている訳がない。特に活版印刷発明後の事件については、相当読み込んでいると考えるべきで、江戸時代ですら、誰がどこに住んでいるか明確に分かる程だという。

 

だから歴史の新説が本当に学会に認められる時は、新資料が出た時、と考えるべきだろう。「こうとも『読める』」みたいなのは新説とは言わない。ある一つの文書の言い回しで事実を決めている訳ではないからだ。専門の学者が関係文書全てに目を通し、事実はここからこれくらいの幅だろうと決めている

しかも一人や二人ではなく、まさに「学会」総出で読んでいるのだから、一つの文の解釈とかで争っている訳ではない。しかし、今までにない、信憑性の高い資料が出ると、旧史料との突合せの中で、新説が出てくるかもしれない。

 

だから歴史学の資料一冊の読み方だけで新説を唱え、学会での公認も受けていない説は基本的には相手するに値しない。

 

これはアインシュタインは間違っていたとか、医学は全て間違っているとか、そういう系の人にも適用できる思考ではある。

 

このようなことを、昔、主張していた。

先人の知恵や、積み重ねに敬意を示すのは大事だと思う。

自分はよく、白と黒で単純には分けられない、と言うが、それは何事も決められない、というような、虚無的な主張ではない。

100%の断言はできなくても、複数証言や複数の日記や記録を重ね合わせれば、事実の範囲は推定できる。複数の人間が突如虚偽の日記をつき始め、嘘の証言をし始め、公的機関や新聞社も同じ嘘を書き始める、などというトンデモを想定しない限りは、複数の証拠を突き合わせていけば、事実の輪郭は掴めるだろう。

むしろ、東浩紀とかが、平気で歴史修正主義を支持するような発言をしたように、何も決められないとか、科学と違って物理的事実でないとか、そういうスタンスの方が危険に感じる。

 

たびたび、法は曖昧なところがあり、皆が思っているような、単純な白黒ではない、と言ってきたのは、だからこそ、こまめな事実と推論を積み重ね、灰色を考え抜くしかない、という意味で、思考を放棄して、どうせ灰色、と投げ出す事ではない。

ネットだと、理系・工学系の意見というか、そういう考え方が通りやすいのか、何かと白黒だけで論じようとして、かえって歪つな面を感じる時もある。

法に訴えればいい、と簡単に法に丸投げしてしまうスタンスもよく見かけるが、それが適性な時と、そうでない時があるし、そもそも法でどうこうできる問題でない時も、しばしばある。

むしろ、法には全く触れていないようなものでさえ、すぐに、これは○○罪ではないか、と言い出す人さえいる。

 

0と1、白と黒、とにかく裁判、という考えを、思考停止に使うのは、良いとは思えない。そもそも法に詳しくないのに、とにかく裁判、と言い出すのは、考えるのが嫌なだけの可能性があるかもしれない。

 

 

そういえば、証言とかを、すぐ、嘘ではないか、と反射的に思ってしまう事が自分もあるが、どんなものでも、単体の主張では事実かどうかは判定しがたい。

 

周辺の事実関係、記録、状況と合わせれば、裁判でさえ、証言は証拠能力を持つ。そもそも、書き記された記録だって嘘が書ける訳だから、証言の証拠能力を低く見積もる必要はない。でも何故だろう、自分も、証言、と言われると、咄嗟に嘘かも知れないと思ってしまう、不思議な心理ではある。

 

何か難しく大きな問題の時に、専門家集団、言うなれば学会のようなものの意見を全面に無視するなら、自分も学会以上にその問題に詳しくないと難しい場面が多いのではないか。

 

判例で示された法律の読み方も分からないのに、込み入った法律議論はできないだろう。

 

まあ、そのような事を思ったのだが、単純な白黒や決着ではなく、色んな意見がある、というところが決着であって、たとえば、はあちゅう氏を黒だとか悪だとか、自分も思っている訳ではない。むしろ、勇気ある告発者であり、白の部分もある。そして、童貞云々の発言については全く相いれない考え方の持主だな、と思うだけだ。

 

 最終的には、自分は支持しない、というだけに過ぎないし、そこしか決着がない。

 

 そこにもやもやしてしまうから、粘着したり、執拗に攻撃する人間も誕生するのだろうけれど、基本的に、議論に決着や勝ち負けはないと思った方がいいのではないか、と思う。

 「事実認定」には決着がまだある方だが、「主張」には決着がないだろう。童貞を馬鹿にするのは表現である、というのはどう考えても「事実認定」ではないし、本人からしたら、馬鹿にはしていない、という話になる水掛け論だろう。

 

 

 決着のつかない「主張」を抱えて、灰色を生きるしかない。