法律、判例、その運用

法律は案外白黒付けない、気がする。

少なくても、普段の言葉の延長で法律を読むと、意味を勘違いすると思う。

有名なのは「悪意」で、これは日常の言葉だと、悪い事してやろうと思って、みたいな意味だけど、法律的には、知りながら、ぐらいの意味になる。

私は法律の専門家ではなく、一部税法に少しだけ知見があるだけだけど、法律を日常の言葉で読んで、勘違いして裁判して負ける、みたいな納税者は判例を見る限り、結構いると思われる。

例えば、「やむを得ない事情がある場合はこれを認める」とか書いてあるのをそのままの意味にとって、俺はその税法を知らなかったからやむを得ない!とか言い出しちゃう人もいる訳ですが、当然ながら、この場合のやむを得ない事情とは、災害等によって物理的に不可能であった場合等と解するのが相当であって、税法の不知を理由にしても、やむを得ない事情にはあたらない、とか言われて裁判で負ける訳です。

 

この「法律オレオレ解釈」みたいなのはネットでも結構見かける。

普通の日本語として読んじゃ駄目なんや・・・。

なんで法律の文章を普通に読んでは駄目かというと、法律の日本語は、所詮、日本語だから、「じゃあ実際にこういう事件があったけど、これはどうなの?」というところで何度も争いになり、その度に判決が出て、それが判例となり「この文章はこう読む」と言うのが何度も練り上げられて現在に至る、という経緯がある。

 

法律文には、先人の歴史が刻まれている。

 

昨日の馬券の裁判なんかもそういう一例な訳です。

 

「利益を得るのに直接要した費用」とはどこまでを指すのか? という話な訳です。

 

最初から普通の日本語として読めないように難しくしてやろう、なんて悪意(日常の言葉)は法律には無い訳です。

 

 費用として引けるのは、利益を得るのに直接要した費用とする、なんて、そのまま読んでも基本は大丈夫じゃないですか。

 だって、売上と全然関係ない、昨日買った爪切りの代金を費用として入れていいとか言い出したら、何でも費用になっちゃう訳だから、関係ある奴だけにしてね、というのが始まりだと思うし、こういう始まりを「立法趣旨」みたいに言うと思う。

 

 裁判官達は法律の読み方を決める時、当然、立法趣旨に関しては検討します。

 

 そもそも、何が目的の法律だったのか? ということを無視して判決を出す場合もあるでしょうけど、それは例外だと思います。

 

 しかしここへ来て、もともと、事業者の売上とか仕入とか、直接要した費用、の解釈がまあまあ分かるものと、段々曖昧になったり、グレーになったりしていくものがある訳です。

 

 食事代はどこまでいいのか? 服代は? 飲み代は? そして、馬券の代金は?

 

 さまざまな例外があり、裁判が起こされ、判決が下りて、判例が生まれ、「直接要した費用」の範囲は、ここからここまでの概念と解すべき、というのが積み重なっているので、素人がいきなり日本語として読んで判断するのは難しくなっていく訳です。ある程度それは仕方がない。

 それでも、例外的事象以外は、直接要した費用ではないでしょそれ、と常識的に判断できるし、まあまあ普通の日本語として読んでも意味が分かる訳ですからね。普通はそんなには困らない。

 でもそこで、俺の美容整形代金も、歯医者の代金も事業の費用だ、と本気で言う人が世の中にはゴロゴロいる訳です。たぶん判例では負けた人結構いそうな気がするけど。(社長として、外見を整えるのは事業に必須であり云々・・・みたいな事を言う人はいる訳です。しかし通常に考えるなら、社長の美容整形代金が事業と関係あるとは言えず、社長自身の私生活の都合上の代金であり役員報酬と見做すのが相当云々、という話になると思う。厳密に言うと、直接要した費用云々は所得税法だから、法人税法はちょっと違うけど省略)

 

 歴史の積み重ねが、法文にもある訳で、素人がぱっと読んでもそれは分からない。

 

 だから、法律はやたら難しい! という指摘はそうだけど、そうなってしまう必然もあるよ、とだけ。

 

 ただ、その長年の積み重ねの結果、法律が全てに白黒つけてくれるかというと・・・残念ながらそうではない。

 

 判例は所詮判例

 

 判例というのは、昨日の競馬の事件でもそうでしたが、「以下の事実関係をもってこのように判決する」というものなので、あくまでも「その事件」の時はこう判断したよ、という話に過ぎません。

 

 現に、同じ馬券の費用でも、認められた裁判と、認められない裁判が出てますよね?

 

 それなのに、何故判例が大事かというと、必ず、判決には「理由」がついてきます。

 何故、馬券を費用として認めたのか、その理由が。

 世の中に全く同じ事件はないのですから、似たような事件に見えても、認められたり認められなかったりするでしょう。

 しかし、それはいきあたりばったりにやっているのではなく、そこに至る理由があり、それは判例にどうしてそうしたか書いてある訳ですから、判決の大事な部分の構成要素を満たしていれば、同じ判決になる可能性は高い訳です。

 

 でも、そこには曖昧さが残る。

 

 ネットでは、法律や判決を絶対のものと思っている人が結構いる。

 

 しかし、そうではないと私は思う。

 

 法律は日本語であり、言葉である以上、常に曖昧さを孕み、判例を幾つ積み重ねても完全にはならず、さらには、判決にも冤罪があり、灰色は常に残るというか、大半は灰色だと私は思う。

 

 世の中が白と黒だけなら、とても楽だと思う。

 

 法律も判決も国家も100%の白黒がないなら、どうすればいいのか、と言えば、ただこの灰色を考えぬくしかないのです。

 

 現実の灰色を考え抜いて生きる。

 

 しかし私はこの灰色=ややこしい話、を考える事が、結構面白い事なんではないかと思うし、そこにある楽しさを伝えられたら、と思う。

 

 税法に少し知識があると言いましたが、税法は、国税庁国税局が「通達」という形で見解を出して、納税者と直接バトルする、けっこうおもしろい法律だと思います。

 

 まあ、他の法律のことはしらんけども。

 

 しかも、時々、国が負ける。

 

 なんかこういう租税法律主義について知らずに、とにかく国は金をとる気だから、金額の争いで結論が出るんだ、みたいな知ったかぶりする人をよく見かけます。

 

 国が本気で金を取りたい時は、普通に法律を変えるので(消費税率を上げたりしてるでしょ)、新しい出来事の租税的解釈は、積み重ねてきた法律理論で決めるので、金額をぶんどる云々は、直接は関係ないです。(でも、租税逃れになるのは困るから、実務運用は考える)

 

 他にも、この世界にはたくさんの「ややこしい話」があって、そのややこしい話の面白さを探求したい、という思いがこのブログの開設と関係があります。

 

 ややこしい話をしよう、というブログタイトルにしたかったのだけど、ブログタイトルの変更の仕方がわからない。

 

 そんでは、今日はここまで。